協力出版のこと、新風舎のこと


協力出版共同出版自費出版ではないのがミソ)を経営の中心にしている版元のことについては、そのうち書こうと思っていました。名のとおったところ(大新聞に広告をうち、協力出版共同出版の原稿を募集している版元)では、碧天舎というところが倒産しましたが、まだ文芸社新風舎という版元が経営を続けています。


藤原新也さんが最新のブログ記事で、新風舎の写真集出版に関して「怪しい話」だと記しています。また、「週刊文春」11月30日号には、「朝日がモテ囃す『詩人経営者』に憤る作家のタマゴたち」という記事を掲載し、やはり新風舎自費出版の方法に疑問を投げかけています。そんな勢いを借りつつ、ちょっと自費出版について考えてみようかと思います。
碧天舎は弊社と二文字違いの社名ですし、新風舎にいたっては弊社と一文字違いの社名なので、記事で取り上げるのは微妙な気分なのですが。(笑)

Shinya talk 11/23 → http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

版元が無名の著者(というのが失礼であれば、通常の企画出版として本を出すのが厳しい著者と言い換えます)と契約をして本を出すこと、すなわち自費出版については、さほど問題なかろうと思います。厳しい言い方かもしれませんが、版元が法外な値段をふっかけてきたのかどうかは、相場を調べればわかることでしょう。「相場を調べる」といっても、調べる方法がわからないという著者もいるかもしれません。が、胡散臭い営業マンが提示する見積を見て、「本を出すのに、これほど金がかかるのか……」と思ったらすでに赤信号であり、その時点で誰かに相談すべきことなのだと思います。


そもそも、自費出版の場合は、版元が本をつくり、それをすべて著者に買い取ってもらうことが前提となっているのですから、契約内容はすっきりしており、たとえ相場よりも高い金額で本をつくることになったとしても、著者が満足していればそれほど問題にはならないものだと思います。まあ、もし契約書の内容を理解できないような方に対して、法外な金額で自費出版契約を結んだとしたのなら、それは限りなく詐欺に近いことだと思いますが。


問題は、契約を結んでおきながら、契約内容が履行されなかった場合であり、そうしたケースの多くが協力出版共同出版(以下、このふたつを協力出版という)という契約形態だということです。
本というモノは、ある程度のノウハウがあれば、誰でもつくれるものだと思います。それは、自分がつくっていて、そう思いますので。とはいえ、第一に本というモノを「商品」として世に流通させること、第二にその「商品」が売れることにより利益をあげること、という二点を加味すると、事情は一変します。当たり前ですね〜。


本を商品として流通させるためには、リアル書店(以下、書店という)に積まれ(置かれ)なければなりません(ネット書店については、自費出版本がどう扱われているのかわかりませんので、ここでは触れません)。本が書店に置かれるためには、企画の段階でさまざまなハードルをクリヤーする必要があります。第一に、読者が買ってくれる内容かどうか。第二に、書店人が置いてくれる内容かどうか。第三に、取次が全国の書店に配本してくれるような内容なのかどうか。


思いこみであれ、夢であれ(笑)、この三つのハードルをクリヤーできるかどうかを、企画の段階で吟味されたものが、商品としての本として制作が可能になるのだと思います。クリヤーする要素として、著者の知名度や内容の充実度、そして「いまなぜその本を刊行するのか」ということなどを、何度も何度も考えるわけです。そして、ハードルがクリヤーできそうにない企画については、ときには断腸の思いで、ときには名残を惜しみながらボツにするのです。


著者は、協力出版というかたちで契約した場合、「商業出版の形態で出版社の本を出版するが、出版に要する費用のうち初版制作費を著作権者に負担してもらうことで著作権者もリスクを負う」ことになります。ようするに、契約上は弊社が宮台さんと企画出版の契約を結ぶのとほとんど同じかたちでありながら、制作費を負担するという部分で著者が「協力」するというのが、協力出版の実態だと思います。ですから、出版に要する費用のうち広告・宣伝・販促費を版元が負担するという点については、弊社が宮台さんの本を出すのとまったくかわらない契約内容なわけです。


以上のことを考えると、協力出版の問題点として議論すべきは、出版に要する費用のうち広告・宣伝・販促費を、ほんとうに版元が負担しているのかどうか、という点に集約されると思われます。だって、弊社であっても上記の三つのハードルを苦悶しながらクリヤーし、そのうえで本を出し、毎回、その本の広告・宣伝・販促には四苦八苦しているのです。もし多くの協力出版契約で、「初版制作費を著者が負担すること」と、企画段階の「三つのハードルをクリヤーするということ」が、バーターになっているのだとすれば、そうやってつくられた本の広告・宣伝・販促をおこなう営業さんは、多くの難問を抱え込むことになることは、簡単に想像がつきます。


読者や書店人が知らない著者の本を、どうやって書店に置くのだろう。
企画出版に必須な三つのハードルとお金とをバーターしてつくった本には、流通・販売のうえで純粋なる企画出版の本と同列に扱ってもらうことには困難がつきまとうと思うが、それをどのように克服しているのだろう。
書店の棚を買い取って、その棚に一定期間だけ本を陳列することが、企画出版と同列の広告・宣伝・販促をしたことになるのであろうか。


これを言い出すと、いくつかの宗教団体の本が大手書店にドカンと積まれていたり、売場の一角を占めていることにも言及せざるをえなくなるかもしれません。書店の棚を買い取るということは、そこに置かれた本の売れ残りを、版元がすべて買い取るということを意味することが多いようですから。この場合、版元としての宗教団体が教祖なり何なりの本を大々的に書店に置くことには「布教」や「宣伝」の意味があり、書店には売場の一角を占めている本が確実に売りさばけるという経営上のメリットがあります。


では、協力出版を中心にしている版元が、書店の棚を買い取ることには、どんな意味があるのか。協力出版でつくられた著者の本を一定期間であれ書店に陳列することにより、版元が各著者に対して「企画出版と同列の広告・宣伝・販促をしている」といえるようにしておく、という意味があるんじゃないかと思うんですよね。売れ残りを版元が買い取るのであれば、宗教団体の本と同様に、この方式は書店にとっては経営上のメリットがあるかもしれません。


こうしたことは、宗教団体と書店の関係性であり、協力出版をやっている版元と書店の関係性の問題です。いずれの関係も、商取引としては非の打ちどころがありません。ですが……。売場で働く書店人には、いずれの関係性も評判があまりよろしくないというのも事実です。某宗教団体の本が山積みされたコーナーを「できれば、撤去したい」という声を、多くの書店人から私は聞きました。協力出版の棚についても、同様です。


以上が、協力出版に対して私が抱いた疑問です。なお、協力出版にまつわる疑問や問題点については、以下の記事にくわしく書かれています。筆者の松田さんは、文芸社と一度は協力出版の契約を結んだが、後に契約を破棄した方です。ぜひご一読いただき、いわゆる協力出版とは何ぞやと考えていただければ幸いです。

文芸社「協力出版」で著者に請求する制作費は正当か?
文芸社商法のさらなる疑惑
それでもあなたは契約しますか?
「共同」の意味を履き違えた共同出版
文芸社だけではない、制作費の水増し疑惑
共同・協力出版のシステムと闇に包まれた実態
共同・協力出版問題で問われるメディアの責任
文芸社と闘った人(1)
文芸社と闘った人(2)
騙しの出版商法と闘うために
碧天舎倒産で揺れる共同出版の行方

以上、インターネット新聞『JanJan』より

藤原さんは、新風舎で写真集を出した方の情報を、ウェブ上で募っています。藤原さんがアクションを起こし、文春が記事にしました。新風舎がらみのネタには、今後も関心を持っていこうと思います。


それにしても、新風舎のコンテストで審査員をしている写真家の平間至さんは、新風舎協力出版体制について疑問を持っていないのでしょうか。まあ、サラ金のCMに桃井かおりさんと竹中直人さんが雁首ならべて出演するなど、有名人とクライアントとのあいだには、自らのイメージがダウンしてでも協力関係でいなければならないというような、不可思議な関係性があるようですけど。
でもね〜、もしダーティーな噂がささやかれているのなら、触らぬ神にたたりなしという考え方もありますよね。