モンスター


最近、TSUTAYAの半額デーになると映画を6本ほど借りています。一週間で見ることができるかどうかは、あまり考えません。新旧や洋画・邦画を問わず、いろんなジャンルの作品を借りて、時間が空くと見ています。


特定の監督作品を一気に見たりもします。タランティーノスピルバーグスパイク・リーなどなど。粉川哲夫さんや宮台真司さんの映画評を読んでから、見る作品もけっこうあります。


だからといって、私は熱烈な映画マニアなわけでもないんですが、マイブームとでもいうのでしょうか。この連休中も時間があれば映画を見ているわけです。そのうちの1本が、パティ・ジェンキンス監督「モンスター」でした。浦沢直樹の漫画『MONSTER』(小学館)も強力な作品でしたが、この映画も心に残るすごい作品だと思いました。


この映画の主人公は、7人の男性を殺害した連続殺人犯のアイリーン・ウォーノスという実在した女性。内容は、アイリーンが同性のパートナーであるティリアと出会ったころから、連続殺人を犯し、逮捕されるまでを追いかけたものです。


以下、ネタバレを含みます。とはいえ、映画の内容は、すでに知られている有名な事件なので、これを読んでから映画を観ても、とくに問題はないかと思います。



アイリーンは、祖父や実兄によりレイプをされるなど不幸な幼少期を過ごし、15歳のときから売春を生業にして生きた。何もかも信じられず、身体で稼いだ最後のカネで酒を飲んだら死のうと思っていたときに、同性愛者のティリアと出会います。そして、一端はティリアの愛に救われます。世の中も信じられず、人も信じられない。絶望のあげく、死のうと思ったら、たまたまティリアという愛すべき人が出現したんですね。


ティリアの居候先の親戚は、売春婦は「ニガー」(黒人の蔑称)と同じで、とんでもない奴なんだから付き合うなと言います。そんなことがあっても一緒にいるティリアのために、売春から足を洗って、まともな仕事に就こうとするアイリーン。そんな彼女ですが、どこの会社にいっても素性やら学歴やらをバカにされて、働き口が見つかりません。結局、アイリーンはティリアへの愛を継続するための手段として、売春を装った殺人強盗を次々に犯すようになります。


この映画は、実際に起きた事件を振り返るかたちでつくられており、暴力や殺人のシーンもいくつかあります。でも、サスペンスやホラーで見られるような殺人のおどろおどろしさを、私はあまり感じませんでした。殺したくないけれど、殺さざるをえない。そういう状況におかれた人間が、どのように思考し、行動するのかという類型のひとつを垣間見るような気がして、何よりもアイリーンの行動や言葉に「せつなさ」を強く感じました。


なんだかんだいっても、世の中の人たちは、ある人を出自や学歴、職歴、それに「パッと見」で判断してしまうことが多く、ある人がどのような環境で育ち上がったかとか、どのような経験を積んできたのかには、思いをはせることがありませよね(私自身を含めて)。


でも、とりあえず近くにいる人については、すこしは思いをはせることも、必要なんじゃないのかなあ。この映画を観ながら、そう思いました。けっしてアイリーンの連続殺人を肯定しているわけではありませんが、なぜ連続殺人をしたのか(せざるをえなかったのか)を考えてみるのは、それなりに意味のあることだと思うんですよね。もちろん、被害者の方々に対しては、追悼の年を抱きつつ。


ある人のことをまったく知らなければ、思いやりを持とうと思っても持てません。ある人のことを知ったうえで、「こりゃだめだ」と考えて、思いやりなんて不要だと思う。また、ある人のことをまったく知らないで、「こりゃだめだ」と切り捨ててしまう。このふたつは、見てくれや結果は同じだけれど、内容はだいぶ違うと思います。一瞬でも、ある人のことを、別の人が意識するという意味では。


ある人のことを一瞬でも意識すると、「こりゃだめだ」になる可能性もあるし、「なんとかしよう」という気になる可能性もあります。こうした気分で「モンスター」という映画を見終わってみると、赤木さんの存在が私の脳裏にちらつくわけです。


明大での「臨床社会研究特論」という講義で、レポート試験のテーマを「なぜ人は人を殺すのか」または「人は人を殺してはいけないのか」にしました。課題を出す前に、この映画を学生たちと観ておけばよかった(もちろん講義の時間内に)と思い、ちょっと残念でした。

モンスター 通常版 [DVD]

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