引き続き『現代思想』について

 昨日のブログで『現代思想』誌について書いたところ、いくつかのコメントをいただきました。以下、その応答をふくめて、私の思うところを記します。

 私は、丸川哲史さんがコーディネートする竹内好研究会で同誌編集長とご一緒したり、双風舎の著者たちと対話した経験から、同誌についてこのブログで書いています。また、すぐれてはいませんし、「伝統」もありませんが、みずから淡々と著作を発行している自負もあります。「だからといって、君のいっていることに根拠があるとはいえない」と思われても仕方ありませんが、けっして私の妄想のみを膨らませていっていることではないのも確実です。
 つまりは、同誌にエールを送っているわけです。
 いい部分をとりあげて「そのままでいいよ」といっている場合ではない、と私は思います。売れなくて、廃刊になったら、あまりにももったいない。よって「こうだったらいいのになあ」と批評を重ねることにより読者層を増やし、部数を増やし、「存続」してほしいと思っています。僭越ながら。
 『情況』は、廣松渉さんの思想を多かれ少なかれ継承する人が、党派性を超えて執筆するので、『現代思想』よりも幅の広い筆者が書いているのでは。とはいえ、高齢のブレーンには、いまだ廣松マルクス主義を信仰されている方も多いらしく、その部分が誌面に滲み出てくると、若い人には読みにくい雑誌に変貌してしまっているような気もします。それを考えても、『現代思想』より『情況』のほうが、「何でもあり度」(= 新しい読者をつかむ可能性の度合い)が高いと見ています。
 細かく書くわけにはいきませんが、ようするに私は、たとえば『現代思想』に宮台真司が書いてもいいじゃん、と強く思うわけです。お笑い芸人・レギュラーの「あるある探検隊」ではありませんが、ひとつの雑誌のなかで「ある、ある」「そうだ、そうだ」と、ほかに書かれた同誌の論文に対して同意し、安心してしまう筆者をあつめる。そして、「ある、ある」と同意し、安心したい読者のみがそれを買う。政治が熱い時代は、それでもよかったのかもしれませんが、政治が寒い、空虚なこの時代に、そういう方向ですすむのはどうかなあと思います。ときには「ある、ある」以外の筆者を招き入れ、同じ雑誌の同じ号で論争を展開してもいいのでは、などと思ったりもします。
 同誌編集長の新人発掘への意欲と、その嗅覚の鋭さには、学ぶべきものが多々ありますし、素直に尊敬もしております。双風舎の筆者である丸川さんも、発掘された方のひとりですし。そのへんは、出すものの一点一点に経営の存続と生活がかかってしまっている私などに、できる芸当ではありません。雑誌だからできることを、口先だけにとどまらず、着実かつ淡々とおこなっているというご意見は、私も同意いたします。
 それでも、いまは『現代思想』の優れた部分を認識しつつも、あえて「こうだったら、いいのになあ」と多くの人が意見を重ねることが、重要なタイミングであるような気がします。同誌にしろ『情況』にしろ、正確なデータはありませんが、部数的にはかなり苦戦していることが想像できます。党派性を貫徹して「討ち死に」するのも、ある人にとっては美しい姿なのかもしれません。でも、それでは、もったいなさすぎます。私自身は、「討ち死に」に価値があるとは、あまり思いませんし。
 先日、ある月刊誌編集長にそんな話をしたら、「きみに必要なのは、概念だよ」といわれてしまいました。「必要なのかなあ……」と思いつつ、「いまどき概念ですか……」と思ったりもします。この点については、私の出すものを見てください、としか答えようがありません。

 みなさんは、どうお考えですか?

タイガー&ドラゴンが終わった

 最終回では、2回泣きました。西田敏行鶴瓶が対話するシーンと、岡田が「俺は寿限無でもやればいいんだから」といって長瀬を高座にあげるシーン。
 ドラマで泣いたのは、「傷だらけの天使」最終回で、修がアキラの亡骸をドラム缶に入れ、夢の島に捨てにいくシーン(BGMが「ひとり」って名曲でしたねえ)以来のことでした。
 くわしくは、tatarさんがお書きになっているとおりなので、書きません。とにかく、いいドラマをつくってくれたクドカンに感謝です。昨日、往来堂のオイリさんと、ドラマで「ちくま文庫といったいましたねぇ……」などと話していました。http://d.hatena.ne.jp/tatar/20050625

 つぎは「ドラゴン桜」ですね。たしか朝ナマで、宮崎哲弥さんが面白いマンガだと誉めていたような気がします。とりあえず初回を見て、お手並み拝見です。