神奈川大学評論のシンポ「日本社会論」

 土曜日に、我が母校・神奈川大学にいってきました。
 自宅から1時間半くらいかかるため、通常ですと非常勤の講義があるとき(年5回くらい)しかいきません。講義といっても、「カンボジア経済」という仮テーマを設定しておきながら、生きづらい日本社会をどう生き抜くか、みたいな話をしているだけです。今回は、尊敬する『神奈川大学評論』編集者の小林孝吉さんが主宰し、宮台さんが出席するとのことで、駆けつけました。

 観客は200人くらい、いましたかね。その多くが初老の方がたでした。土曜日だとはいえ、大学のヨコにあるホールで、なおかつ無料で開催されているシンポに、宮台さんや『希望格差社会』の山田昌弘さんが参加している。にもかかわらず、学生の姿がほとんど見られなかったのは、どういうことなのでしょうか。ちょっと希望を失いました。でも、それが現実なんですよね。直視しなければ……。

 宮台さんは「過剰流動性社会に抗う」というテーマで講演しました。山田さんは「家族の個人化の光と影」。神大の笠間さんは「経済の自由化は、性別秩序の解体を加速して進行させているのか」。
 3人の講演が終わると、休憩をはさんでパネル・ディスカッション。講師の3人に、神大的場昭弘さん(弊社刊『<帝国>を考える』の編者で、私に仲正さんを紹介してくれました)と橘川俊忠さんが加わって、すすめられました。

 私は別件で用事があったので、小林さんと宮台さんにあいさつをして、すぐに退席してしまいました。というわけで、シンポの内容については、あまりよくわかりません。それで印象に残ったのが、冒頭の「若者不在」という状況であった次第です。

 それにしても、『神奈川大学評論』はよくやっていると思います。「アカデミック・ジャーナリズム」という旗をかかげつつ、これだけ人文系の雑誌が売れない時代に、よく年3回発行で50冊も出せたなあ、と思います。すばらしい。やはり雑誌は、編集長のものであり、編集長のセンスがそのまま内容に反映されるものであり、それが読者に受け入れられるかどうかが問題なのだ、とつくづく思いました。
 小林さんは、図書新聞2005年6月11日号に、「ベルリンの壁の崩壊から希望喪失社会まで」という文章を書かれています。私が共感した部分を抜粋します。

日本社会は、終焉と呼ばれるほどさまざまな領域で断絶感が色濃く漂っている。経済も、社会システムも、文化、思想も……また、日本は新たな「希望格差社会」を迎えている。……本郷は、そんな日本社会論を終焉から未来への眼差しで見つめていきたい、と。
 その眼差しとは、ベトナム意向、生涯戦場に立ちつづけた作家スーザン・ソンタグが遺著『良心の領界』で、日本の若い読者に向かって書き残した、次のような言葉と通じあう。――「傾注すること、注意を向ける、それがすべての核心です」「良心の領界を守ってください……」と。ここには私たちを勇気づける、批評の表現することの「倫理」がある。ソンタグは、世界と歴史と人間の、どれほどの悪と闇を見届け、晩年このような美しい言葉にいたったのだろうか。

 「傾注すること、注意を向ける、それがすべての核心です」。ひさしぶりに、いい言葉を教えてもらいました。小林さんの『神奈川大学評論』は、その姿勢を実践できていますが、双風舎はそれを実践できるのであろうか、などと考え込んでしまいます。
 いくら詳細に説明しても、専門的に話しても、自分が「善」とか「正」とか思っていても、傾注されなければ、注意を向けられなければ、まったく意味がありません。ということは、自分がいいたいことを他人に理解してもらうためには、まずは傾注されるような努力をし、仕掛けをつくらなければならない、ということなんですね。それを怠ければ、ただカラカラと空回りしていくだけになってしまいます。
 空回りはしたくないなあ。