なぜトークセッションをやるのか


 葉っぱさんの素朴なご要望に答えなければと思い、このエントリーで私の考えを書こうと思いました。トークセッションを関西方面でもやるべきではないか、という話です。

 たしかに、話せる著者は西にもたくさんいますよね。そういう著者は、おそらく書店や版元が誘えば、断る理由などあまりないんだと思います。大澤さんだって内田樹さんだって、職場は西ですからね。
 問題は、葉っぱさんのおっしゃるとおり、書店や版元の「やる気」だと思います。あと、書店にやる気があっても、場所がなければ仕方がない、という問題もありますが、それは工夫すれば何とかなるものでしょう。
 とはいえ、いくら書店にやる気があっても、版元の協力なしには、トークの企画は進まないと思われます。それは、いうまでもなく、トークする著者と直接のコンタクトがあるのが版元なのですから。
 そうなると、書店にやる気があって、著者もやる気がある、しかし版元がアクションを起こさない、という状況が原因で、西でトークが開催されない可能性が高まります。では、どうして版元は、西でのトークを企画しないのでしょうか。
 その最大の原因は、やはり版元が東京を拠点にして、すべての物事を考えているという点でしょう。東京に本社があると、営業力や交通費といった物理的な問題上、関西まで足を伸ばして何かをするということが、難しくなります。
 双風舎の場合ですと、第一にまず自分が関西にいくための足代を捻出することができません。くわえて、第二に講師に支払う車代(ひとり1万〜3万くらいが相場)を全額、もしくは書店との折半で負担する必要が生じます。これも零細版元には大きな負担です。
 それでも私は、第二の負担をどうにか捻出しつつ、東京でトークを企画しています。講師にしても、○×会議所やら□△の会といった資金が潤沢な主催者が企画する講演にいけば、1回で10万とか20万とか講演料をもらえたりします。それを1万とか2万で了承してもらっているのです。
 いろいろたいへんなのに、なぜトークを企画するのかは後述します。問題は、東京の版元でも、潤沢な接待費やら交通費を使える状況にありながら、1年に数回だけ「●●先生講演会」をやることにより、「トークもやってるよ」という免罪符にしている大手です。
 大先生の接待を、年に5回のところを3回にするだけで、何十万円もお金が浮くのに、それを遠隔地でのトーク企画などに利用する気など、さらさらないようです。ときおり、そういう問題意識をもっている編集者もいますが、腰は重いといわざるをえません。
 どうなのでしょう。版元は、本だけつくっていればいいんでしょうか。「しゃべり捲くれ」が経営理念の私には、そんな甘い現状認識では、護送船団方式の出版流通システムが崩壊したときに、大手版元も大きな危機をむかえざるをえないと思っています。
 私だって、本の力を信じて、版元をやっています。でも、その力を全面的に信用してもよい時期は、すでに過ぎ去っているように思っています。ただただ本をつくるだけで、世の中に、著者の思考や声を、そしてその著者をフィルターにした版元の声を、どれだけ伝えることができるのでしょうか。
「本を出す→読者が読む→知り合いに紹介する」という流れだけでなく、「本を出し、イベントをやる→読者が読み、イベントに読者(や読んでない人)が参加する→それぞれに参加した人が、知り合いに本やイベントのことを紹介する」という流れにすることにより、読者以外の人たちにも、本のことやイベントのことを伝えるようにする必要があります。
 そこにインターネットやテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などをからめ、本を出すことを契機とした「著者の声を広く届けようキャンペーン」をおこなうのが、これからの版元のやるべきことなのではないか、と私は思っています。とりわけネットは重視すべきです。
 そうしないと、本なんて所詮は本棚から消えたらお終い。もちろん本棚から消えないように、最大の努力はしますが、それには限界がある。大手には、「次から次へと出せばいいじゃん」という姿勢がうかがえますが、それが逆に、一人ひとりの著者の声を殺していることになっているような気もします。
 ちなみに私自身は、著者の声を使わせてもらいながら、世の中に自分が伝えたいことを表明していく、という目的で本をつくっています。で、零細版元が本を出すだけでは、なかなか広く伝わらないという危機感から、積極的にトークの企画を考えるようにしています。
 このように「しなやかな動き」がとれるのは、きっとひとり出版社だからなのだと思っています。リーマン編集者(勤め人としての編集者)では、私のような方向性に共感したとしても、なかなか実現は難しいのでしょう。その限界は、お察しします。
 とはいえ、現状で関西方面でもトークの企画が可能な版元といえば、やはり大手版元しかありえません。なおかつ、大手は、企画を実行してもペイするだけのお金を捻出することは、おそらく可能だと思います。さらには、リーマン編集者の方にも、そういう企画をやりたいと思っている人はいます。
 ならば、なぜ大手はトークの企画を関西でやらないのか。それは、大手の幹部連中が、そういうことに価値を見いだしていないからなのではないか、と私は予想しています。いまの幹部連中は、おそらく本の力を信じていられた世代の方がたですよね。お金の決裁権をもつレベルの人が、「版元は本を出してればいいんだ」という非現実的な信念をもっていた場合、いくら問題意識のあるリーマン編集者が「関西でトークを……」といっても、それは無視されてしまうのではないか、と思ったりします。
 一方で、著者の方がたからは、こういうことをいわれたりします。すなわち、大手のリーマン編集者は、まさにサラリーマン化がすすんでいる。上司からいわれたことを間違いなく遂行して、不祥事をおこさないで、高い給料をもらいながら、「●×館」とか「□△社」という大手の看板を背負っていること自体に価値を見いだしている。まあ、ここではそういうリーマン編集者だけではないと信じつつ、先にすすみましょう。
 「セカチュー」やら「さおだけ屋」やらでがっぽり儲けたお金を、関西でおこなうトークセッションに使ったって、いいじゃないですか。ねえ。物理的には、そうやってお金を使えるわけですよ、どう考えても。何に使っているのでしょう、億単位の純利益を。
 以上のように考えてみると、第一に関西でトークを実施する可能性があるのは、資金と人員の都合で大手版元(もしくは中堅も含む)に限られ、第二にその大手であっても、お金の決裁権がある人がトーク(というか、本の力を過信するのをやめること)に価値を見いださなければ、関西方面でのトーク企画は難しいような気がします。
 このへんのことは、リーマン編集者で気概のある方から、ぜひ意見をうかがってみたいところです。

 最後に書いておきますが、もし双風舎の本がバカ売れして、第一の問題(資金と人員)がクリヤーできるようになったら、いの一番に関西でトークの企画を実施します。ここだけの話ですが、宮台さんや藤井誠二さんとは「関西方面でもやりたいねえ」などと話しているのです。仲正さんだって、「やるんだったら、いつでもいくよ」といってくれています。

 著者も版元もやる気があります。でも資金がありません。それが双風舎の現状です。