ワーキング・プアな親を持つ子ども 1

放送してから話題となっているNHKスペシャル「ワーキング・プア」。さきほど、再放送を観ました。
よく取材していますね。それも長期にわたって。出演者の人選だって、さんざんリサーチをして、いろんな人にアプローチをかけた結果、あの方がたに決まったのだと思います。制作者の「ここが問題だ」という主張と熱意が感じられました。取材期間からいっても、予算からいっても、NHKじゃなきゃできない番組ですね。

でも、この「ワーキング・プア」という状況というか現象は、けっして新しいことではなくて、もっと前からあったような気がするのは、私だけでしょうか? 今回は、ワーキング・プアという現象そのものというよりも、ワーキング・プアな親を持つ子どもが、どのような状況におかれているのかということについて、私自身の経験をもとに取りあげてみます。

私は、物心ついたときから母子家庭で育ちました。かあちゃんは、ずっとキャバレーで勤めていて、夜はいつも家にいませんでした。それでも、かあちゃんが水商売をやっていて、ある程度の稼ぎがあったからでしょうか、私はフツーに「幼稚園」(保育園ではない)に通い、フツーに小学校にも通っていました。おまけに、リトルリーグとかに入って、野球もやっていました。

小学2年くらいになり、風呂なしのアパートに引っ越したときは、それこそ番組に出ていた中学生ではありませんが、銭湯代と夕食代を毎日わたされ、自分で風呂に入って、それからラーメンなどを食べていました。で、私が物心ついてからずっと水商売をしていたかあちゃんは、いい加減に身体のガタがきて、私が小学4年のときに亡くなりました。その後、児童相談所で半年、さらに親戚の家と里親に1年ずつお世話になり、小学6年のときに横須賀の養護施設に入り、そこに高校卒業までいました。

子どものときには気づきませんでしたが、大人になって振り返ってみると、母子家庭であった我が家はまさにワーキング・プア世帯だったと思います。まあ、かあちゃんがそうだったということですね。それで、かあちゃんの場合は、私にはできるだけフツーの思い(学用品や学費、給食費といった学校関係。お誕生会などの友だち関係。野球やマンガなどの趣味関係)をさせる、つまり金をかけるかわりに、みずからの健康管理がずさんになってしまった(健康にカネをかけなかった)ような気がしないでもありません。死人に口なしなので、実態はわからないのですが……。

働いても豊かにならない世帯や家族から、少なからずカネを稼いでいた働き手がいなくなったら、その世帯や家族が壊れてしまうのは、いうまでもありません。私の場合は、働き手がひとりしかいない母子家庭なので、働き手を失った瞬間に、上記のようなわかりやすい壊れ方をしました。

当時、1970年代の当時は、養護施設といえば「孤児院」というイメージがありました。施設は、親がいない子どもが入るところ。そういうイメージですね。私がいた施設は、乳児から高校生まで、100人くらいが暮らしていましたが、実際に両親が不在の子どもなんて、1割もいませんでした。両親がそろっている子どもがもっとも多く、その次が片親、その次が両親不在という順です。

施設の子どもは、ほかの子の家庭環境について、異常に興味を持ちます。よって、高校生まで施設にいれば、入所しているほとんどの子どもの家庭環境が、頭にインプットされたりもします。その記憶を思い起こすと、たしかに親が犯罪を犯して刑務所にいたり、精神的な病にかかっているケースもありました。しかしながら、もっとも多いのは、両親であれ片親あれ、経済的な理由で親が子どもを施設にあずけるケースだったと思います。つまり、私がいた施設には、ワーキング・プアな親を持つ子どもがウジャウジャいたわけです。

ようするに、ワーキング・プア現象によって出てきた澱の溜まる場所。それが養護施設だったような気がします。日本の福祉行政を持ちあげる気はありませんが、澱がどこかへ流れていってしまうのではなく、澱が溜まる場所があったということは、私にとってたいへんありがたいことでした。

次回は、ワーキング・プアな親を持つ子どもについて、もうすこし突っ込んで考えてみます。あくまでも私的な体験にもとずく記述なので、あまり期待しないでください。(笑)