「ワーキング・プアな親を持つ子ども」再考

私がブログをやりはじめてから1年ちょっとになりますが、「ワーキング・プアな親を持つ子ども」というエントリーは、「1」と「2」の合計で8000アクセスという、これまで経験したことのない反響がありました。

多くの方がこの問題に関心を持っているということがわかりました。
なぜ関心を持っているのか。

自分がその当事者になるかもしれない、という不安なのでしょうか。その不安の原因を、社会の制度に結びつけて、「世の中がいけない」と思いはじめると、どん底への道を突き進んでしまうような気がします。実際には世の中がいけない部分もあるのでしょうが、世の中を変えるのはそう簡単なことではありません。ここはやはり、ちいさな幸せでもちょっとした楽しみでもいいから見つけて、「世の中は捨てたもんじゃない」と考えたほうがいいような気がします。まあ、自分がそうしてきたということであり、それを押しつけることはできませんが……。

また、弱者は強者のことを、また強者は弱者のことを、お互いに理解していないし理解できない、という意見がありました。どこで両者の線を引くのか、という重要な問題をとりあえず置いた場合、両者がたいして違わないという論理自体は正論のようにも思えます。しかし、それを言ってしまうと、「弱者が強者になれないのは、弱者の自己責任だ。終了〜」となってしまう危険性もあります。ワーキング・プアな方が存在する理由のなかに、すくなからず「世の中がいけない」という部分もある以上、弱者の自己責任で終わらせてしまうことには問題があろうかと思います。

どうして以上のように考えるのかというと、それは私が12年ほどカンボジアという国で、一般の日本人には「貧しい」とイメージされている外国人と暮らしていたことに起因します。

たとえば、日本人の誰かがカンボジアにいったとします。すると、その日本人はカンボジアに降り立ったときからすでに、カンボジア人には強者だと思われます。よほどの貧乏旅行をしている日本人以外は、カンボジア公務員の年収の4倍くらいする航空券を買って来ているんですから、金持ちまたは強者と思われて当然のことですね。

で、数日とか数週間とかの短期で滞在するのなら、強者×弱者なんてあまり気にしないで過ごせますが、年単位で滞在していると、嫌でもそういうことを気にしないと暮らしていけなくなります。私自身は、自分が平均的なカンボジア人よりもお金を持っているし、いいところに住んでいるということを十分に自覚したうえで、カンボジアの人たちと接していました。それを威張る必要はありませんが、隠す必要もないのですから(というか、隠す以前の話として、口コミですべてバレてしまいます)。

とはいえ、けっして強者×弱者という思考で自分とカンボジア人の関係を考えませんでした。また、強者=弱者(たえず関係性の反転がありうる)とも思いませんでした。では、どのような考えでカンボジア人と接していたのか。かなりベタに、日本人の私とカンボジアの人たちの違いについて、「これは『差異』なんだから、いくら相手と同じになろうとしても無理。同じ部分も違う部分もお互いに認めつつ、関係性をつくっていくしかない」と考えていました。

長く住んでいると、日本人のなかにも「カンボジア人と同じような家に住み、同じものを食べ、同じ生活レベルで暮らしていこう。そして、私は日本人だけど、カンボジア人に同化しよう」という絵空事をいったり、それを実行していたりする輩を見かけたりします。そういう人はとりわけ、カンボジアは「かわいそうだ」とか「貧しい」とかイメージしていることが多い。さらに、相手と同じに状況になって、相手を深く理解し、「かわいそう」で「貧しい」相手を「助けてやろう」とか「援助してあげよう」と考えていたりする。

これはタチが悪いですね。とくに自分で勝手に「良心」だと思って、そういうことをやっていたりすると、なおさらタチが悪い。相手と同じ生活レベルになってみた場合、自分は相手のことがすこしわかるかもしれませんが、相手が自分のことを理解しているかどうかはわかりません。この部分は、いくら自分が努力しても、平行線である可能性があります。また、そうやって相手のレベルに生活を合わせることが、相手にとって迷惑であることも考えられます。

逆に、助けたり援助したりすることを「しょせん、自己満足でやっている」と割り切っているほうが、ぜんぜん救いがあります。助けるほうは自分の満足のために助けているわけですし、助けられるほうも「やつが勝手にやっているんだから」と思えて気が楽でしょう。

以上のような話を、日本のワーキング・プアの話に直接むすびつけることはできません。しかし、ワーキング・プアを考えるときのヒントになるような部分は、あるような気もします。

たとえば、人と人との関係を「強弱」とか「同列」というふうに固定化してしまうのではなく、とりあえず強弱高低をぬきにした「差異」だと考えてみる、ということ。その「差異」を認めた(これが、相手を理解するということだと思います)うえで、その先の関係性を考えていくこと。さらに、「差異」を認めたうえで、自分が相手に何かを施したいと思ったら、それは自己満足で施すのであって、けっして見返りを強要しないということ(見返りもしくは成果を強要するタイプの人が、開発経済学とやらを勉強してきたNGOの人のなかに、たくさんいたのを覚えています)。

相手との「差異」がわかってくると、相手と同化することはできません(そんなことはする必要もないと思います)が、「共感」できるようにはなると思います。私は、こうして相手に「共感」できるかどうかということが、けっこうたいせつなことなんだと思うんですよね。相手に何もできなくたって「共感」してもいいし、「共感」したから何かをやろうと思ったっていい。

ただし、本とかテレビとかの情報だけでは不十分で、ある程度は相手と生身の接触をしないと「差異」がわからないし、わからなければ「共感」もできないというのも事実だと思われます。「じゃあ、どうしたらいいの?」と問われれば、やはりいまの私には「わかりません」としか答えようがありません。とはいえ、元ワーキング・プアな親を持つ子どもだった私には、この問題をずっと考え続けていこうというモチベーションはあります。

最後に一言。私は「ワーキング・プアな親を持つ子ども」というエントリーで、NHKの番組の一部に文句をつけましたが、番組全体については高く評価しています。そのことは同エントリーの冒頭で書きました。ですから、同エントリーを「NHKの番組がよくなかった」ということの論拠に使われるのは不本意なことだと思っています。

上記で「差異」とか「共感」についてさんざん書きましたが、いずれにしても「相手」が誰なのかがわからなければ、「差異」を認識することもできないし、「共感」する可能性もありません。私はカンボジア滞在時に、より多くの日本人にカンボジアのことを知ってもらおうという自己満足的熱意があったことから、数多くのテレビ番組制作に企画の段階から関わりました。しかし、テレビで何度も放映しても、遠い国の出来事に関心を向ける日本人はわずかであることを実感しました。

しかしながら、日本国内の問題となれば、関心の度合いはぐっと高まるでしょう。「相手」が誰なのかが、見えやすくなるでしょう。見えなければ、何が問題なのかもわかりません。ですから、問題点をわかりやすく明示してくれたという意味で、あの番組を私は高く評価しています。そこを起点にして、たくさんの議論が起こるということが重要なのではないかと思っています。