どうでもいい話、たいせつな話


どうでもいい話というのは、紀子さんが男子を出産したという話です。
もちろん、ある夫婦に子どもができた、産まれた、という話自体は、もしその夫婦が子どもの誕生を歓迎しているのであれば、誠によろこばしい話だといえましょう。


とはいえ、皇族の子どもだから、男子だからということで、マスコミがこぞってバカ騒ぎをするのは、どうかと思います。
藤原新也さんが9月6日付のブログで書かれていますが、バカ騒ぎするマスコミなど無視をして、私たちが直視すべきは雅子さんの症状であり、笑わない愛子さんの表情なのだと思います。


皇室の皇位継承問題は、テレビドラマにでもなりそうなネタになっているような気がします。伝統を重んじる商家などで、商家の主に子どもが三人いる。長男と長女には女児ができず、主がもやもやしているときに、次男の嫁に男児が産まれる。主は、「これで直径の跡継ぎができた」とほっと一息……。


そう考えてみると、じつにどうでもいい話ではありませんか。そもそも、商家の主とは違い、天皇が本当に世継ぎとしての直系男子を求めているのかどうかもわかりません。直系男子がどうのというよりも、自分の子どもたちが悩むことなく日々を送ることを、天皇は求めているのかもしれません。騒いでいるのは、周辺の省庁や政治家、一部の右翼だけなのかもしれません。


さて、上記の藤原さんは、9月8日付のブログで板東さんの「子猫殺し」問題にも言及しています。
発言の核心部分を引用します。

 それはかりに動物の殺生にやむなく手を染めたその罪や苦しみや悲しみというものは軽々しく他言すべき種類のものではないということだ。それは自分一人の胸の内に秘め、ひとり罪の苦しみを背負ったまま墓場まで持って行くべきものである。ましてやそれを不特定多数の人々の前で軽々しく公言するということは殺した命をさらに晒しものにするに等しく、あってはならないことである。妙な言い方になるが、殺した命を愛していなかったからこそ軽々しく他言できるということだ。
 この人間としてあるべき基本感情が板東さんにはお分かりになっていないようだ。

 「それを言っちゃぁ、おしまいよ」

 ということである。

これは、紀子さんの男子出産などと異なり、たいせつな問題です。
私は、上記の発言におおむね同意します。しかし、「かりに動物の殺生にやむなく手を染めたその罪や苦しみや悲しみというものは軽々しく他言すべき種類のものではない」という部分には、思うところがあります。


週刊文春」の今週号には、東野圭吾さんによる板東さん擁護の記事が掲載されています。板東さんの友人によるその記事を読めば、板東さんがけっして「軽々しく他言」しているわけではない、ということがわかるかと思います。


藤原さんは「それを不特定多数の人々の前で軽々しく公言するということは殺した命をさらに晒しものにするに等しく、あってはならないことである」と言いますが、誰かがいわなければ、「無意識に動物の殺生に手を染めている」ような人に気づきを与えることもできない、とも思います。だから私には、板東さんがやっているようなことを「あってはならない」と断言してしまっていいのか、という疑問があります。


基本的には、私も藤原さんと同様に、そういう話は軽々しく公言してはならないとは思います。が、公言することの意味と目的をしっかりと見極めたうえであれば、公言してもいいのではないかと思うのです。たくさんの犬猫が日々、殺処分されている事実を記した『ドリームボックス』の内容と板東さんの発言は、直結しているように思えてなりません。


藤原新也さんのブログ → http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php