仇討ちOK? (2)


今回は、昨日のエントリー「仇討ちOK」のつづきです。


死刑の賛否に関する割り切れなさについては、森さんがいみじくも「死刑って、割り切れない、論理的整合性となじまないテーマだなという気が最近とてもしています。論理的には反対だけど、情緒的には否定しきれない後味の悪さ」と発言しています。つまり、論理的には反対、情緒的には受け入れざるを得ないということでしょうか。


これに対して、藤井さんは「死刑を理念的にどう考えるか。殺した人間の命で償わせるということの意味を、当事者を交えて社会のなかでどう議論していくか」が問題であり、「これを法制度のあり方や、正義とは何なのか等の総合的かつ複合的な議論の中から考え、どう『着地点』を見つけるのか」が重要だと指摘します。さらに、その着地点は時代によって変動するものであると付け加えます。


たいせつなキーワードが出てきました。「正義」と「変動」です。ここで押さえておきたいのは、何が正義なのかという物差しがあり、その物差しの変化によって法制度も変動していくのがよいのか、悪いことなのかということです。これまでの刑事司法では、あまりにもその物差しが加害者有利に設定されており、その点について藤井さんは、物差しを被害者有利に設定しなおすことによって、バランスをとるべきだといっているのでしょう。そして、物差しの基準を吟味するための素材が正義であり、正義の意味が変われば物差しの基準も変動するということですね。


森さんは、物差しの基準が変動するのは仕方のないことだが、最近の変動があまりにもなし崩し的であることに警鐘を鳴らします。藤井さんは、その変動を「犯罪被害者という存在を社会がどう受け入れべきか揺れ動いている時期」だと言います。変動は、なし崩し的なのか、揺れ動きなのか。この評価の違いをどう見るか。そのへんが、この対談のポイントであるような気がしました。


私は、藤井さんのこれまでの仕事をずっと見てきましたし、個人的にも親しく付き合っています。だからこそ強く言いたい。ジャーナリストとしての彼の感覚や視座は、高く評価できるものです。犯罪被害者家族へのコミットについていえば、彼の仕事によって、より多くの一般人が、同家族の窮状や不条理な立場を理解するにいたったのだといえるでしょう。不可視であってはならないのに不可視であるものを可視化した功績は大きい。


それでも、この死刑問題についていえば、私自身は森さんのスタンスに近いといわざるをえません。森さんは以下のように言います。

 オウム以降、この社会にはある意味で、不安や憎悪を因子とする危機管理の「鋳型」ができました。その鋳型に、白装束集団や北朝鮮のミサイルや拉致問題を嵌めこみ、同時にこれらの不安や憎悪の反転として、「犯罪被害者や遺族の内面への過剰な共感」という要素も表れた。
 鋳型とはつまりセキュリティです。危機管理への意識がとても高揚し、その帰結として仮想的がいないと安心できないという、とても倒錯した状況になっちゃうわけです。

(「週刊金曜日」2007年5月11日号、56ページ)

くわえて、「犯罪被害者や遺族の内面への過剰な共感」をする第三者は、多くの場合、「善意の領域が大きい人たち」であることを、森さんは危惧します。こうして増幅した「無自覚な善意」が「仮想的がいないと安心できない」という倒錯した状況をつくりだす。この森さんの指摘に対して、藤井さんは「森さんの言い方は危機を煽るだけの『そら狼が来たぞ』的に聞こえてしまう」と言いますが、私にはそう聞こえませんでした。


私が拙ブログでさんざん書いてきたのは、森さんがいう「無自覚な善意」とどう向き合えばいいのか、という問題でもありました。森さんは、「無自覚な善意」を持つ人びとに対して、「彼らを責められません。善意なのですから」としたうえで、「射程に置くべきは構造です」と述べます。この一文を読み、私は「そのとおりなんですよ!」と、思わず膝をポンと叩きました。貧しいといわれている国への援助(という善意)についても、仮想敵を殺して国をよくしていこうというポルポト時代(という善意の政権)についても、最大の問題として調査し、研究し、記述し、再考すべきなのは、その構造なのだと思うのです。


なぜその構造を射程に置くことがたいせつなのか。その理由は、森さんの以下の言葉に凝縮されています。

三者であること、被害者や遺族とは重ならない領域があることを自覚したうえでの支援や優しさが大切です。この社会全体が被害者感情に憑依したかのような感覚を持つことは危険です。
(同、58ページ)

正義の物差しなんて、けっこう移ろいやすいものです。情緒に流されて、変わってしまうことも多い。だからこそ、法制度という、なるべく情緒を介入させないものによって、社会が理性を保とうとしているんだと思います。
しかし、多くの人が、現行の刑事司法に見られるような、犯罪被害者やその家族の情緒的な側面を汲み入れない法制度に不備があると感じたのなら、バランスを保ったうえでの改正を進めていってもいいとは思います。その場合に重要なのは、バランスです。


情緒が善意と重なって、正義を生み出したりします。その正義は、善意を元にしているので、それほど疑いなく、知らぬ間に肥大していったりもします。そして、いつの間にか理性では、その肥大した正義を制御できなくなる。気づいたときには、あとの祭り。ふと振り返ってみると、正義の名目によって、排除されたり殺されたりする人の山が築かれていた……。歴史上、何度も何度も繰り返されてきたことですね。


藤井さんの仕事によって、これまで届かなかった被害者や遺族の切実な声が、まるで傷口に塩を塗るようなインパクトで、私の胸に突き刺さってきます。いまは犯罪被害者や遺族の側に吹いている風が、そのうちやんでしまうかもしれない。そうならないためにも、風を利用して制度の改正を急ぐ必要があるかもしれない。そうした藤井さんらの危惧は、当然のことだと思います。どうにかしなけりゃ、いけません。


だがしかし、どうにかするときには、ぜひともバランスを考えてほしい。情緒と善意が重なったときにできあがる正義の怖さを、念頭に置いたうえで議論を進めてほしい。リアリティがないと一蹴されるかもしれませんが、いくらそういわれたとしても、私は森さんと同様に、この問題に関してはそう言い続けざるをえません。


いやはや、ひさしぶりにいろいろと深く考えさせられた対談でした。
藤井さん、森さん、ありがとうございました!