赤木さんの本を出す理由

lelele2007-09-20



※以下は、「希望は戦争?blog」のエントリーからのコピーです。


双風舎が赤木さんの本を出すことについて、「これは『論座』と同様に、サヨクマッチポンプを利用してカネを儲けるつもりだ」というご意見があるようです。なかば紋切り型の定型文のようになっているこのご意見に対し、私の考えをお伝えしておこうと思います。


第一に、会社として生き残るためには、ものをつくって販売し、利益をあげなければいけません。よって、お金を儲けるつもりで本をつくるという点については、何ら反論はありません。いずれにしても、総会屋が余剰資金で社会正義っぽい月刊誌や情報誌をつくったり、宗教団体が布教のために本をつくるのとはことなり、一般の出版社はすべて、お金を儲けるつもりで本をつくっていることでしょう。


第二に、それを前提としたうえで、なぜ赤木さんの本を出すのかといえば、赤木さんの言葉が私の胸に響いたからです。雑誌の掲載論文として一時的に消費されてしまうのではなく、本として残しておくことに意味があると考えました。
そして、赤木さんの言葉が胸に響いた理由は、赤木さんがいうような「貧困層」の経験を、高校を卒業する前までの私自身がしたことにもとづきます。中学から高校のときには、公務員になりたいなどと安定志向を持ちながら、世の中への不信感がいっぱいで、投げやりで、社会をぶっこわしたいという気分に、私は確実になった記憶があります。でも、そんな思いを人に伝える術がありませんでしたから、バイクで暴走したり、タバコを吸ったり、酒を飲んだりして、当時は現実から逃避していたように思います。


私は、小学四年で孤児になり、その後は親戚や里親をたらい回しにされ、最終的に養護施設で高校まで育ちました。そのへんの経緯は、ワーキング・プアの問題とからめて、以下のエントリーで詳述してありますので、関心のある方は読んでみてください。

ワーキング・プアな親を持つ子ども 1

ワーキング・プアな親を持つ子ども 2

「ワーキング・プアな親を持つ子ども」再考

ワーキング・プア2、見ました

もちろん、私が貧しかったころと、現在の貧困の問題とは、政治状況も経済状態も違いますから、単純に比較検討はできません。でも、昔もいまも一貫しているのは、貧困な人や赤木さんがいう「弱者」の声が、なかなか世の中に伝わらないということです。


考えてみれば、当たり前のことです。なにをするにも、お金がないのですから。文章技術だって磨けませんし、マスコミなどに入り込むほどの「学歴」を身につけるのも困難。


その一方で、マスコミが「貧困」を取り上げれば、それこそ悲惨な実状という結論が先にあるような、「儲けるため」の取材が横行する。党派的な学者先生が「貧困」を取り上げれば、自分とはイデオロギーが異なる党派への批判「材料」として扱うのが常。横山源之介著『日本の下層社会』(岩波文庫)のごとく、徹底的に価値観を排除したうえで明治時代の貧困層の実態をレポートしたような姿勢は、ほとんど見られません。


貧困層の人たちが声をあげるのが困難で、マスコミも学者先生も自分の都合に合うように貧困層を取り上げるだけ。そんな状況がずーっと続いてるなかで、たまたま「論座」というフィルターをとおして、赤木さんが声をあげたわけです。その声が、私の琴線に引っかかりました。


学者先生や院生さんのなかには、赤木さんが「論座」に書いた文章を読んで、「公式に発表できるレベルの文章じゃない」とか「言論として成立してない」「支離滅裂」などとおっしゃる方がたくさんいます。でも、そんなの当たり前のことではありませんか。赤木さんは、学者先生や院生さん、そしてマスコミの方々のような文章訓練など、ほとんど受る機会がなかったのですから。


文章がなっちょらんからダメ。そんな理由で、これまで貧困層の人たちの声が消され、まともに取り上げられなかったように、赤木さんの声を消してしまっていいのでしょうか。本来なら、学者先生や院生さんが、現代の日本社会で、若者の一定数が赤木さんのような思いを持って暮らしていることに気づき、彼や彼と同じ思いの人びと(赤木的若者とします)の元に聞き取り調査にいって、その調査結果をある程度の権力を持つ学者先生(笑)に報告したうえで、社会制度の改革に役立てたりしてもいいと思うのですが。たとえば、の話ですが。


ですから、学者先生や院生さん、そしてマスコミの方々が、もっとまともに赤木的若者と向き合い、声を拾い上げ、何が問題なのかを考えていれば、わざわざ赤木さん自身が声をあげる必要はなかったともいえます。なんで、彼があのような声をあげなければならなかったのか。その部分にほおかむりをして、自分の研究分野に直接関係があるにもかかわらず、彼の文章技術に難癖をつけて、相手にする必要がないと決めつける学者先生や院生さんって、いったい何なのでしょうか。


はっきりいって、表面的に見れば、私が育った環境よりも、赤木さんの環境のほうが恵まれていると思いますよ、それは。仲のよしあしは抜きにしても、両親はいるし、現状ではその両親の家に住めているんだし。他方、赤木さんにしてみれば、私が「恵まれてる」なんていっていること自体が戯れ言に聞こえるくらい、多くの悩みを抱えてるのかも知れません。


でも、彼の本を出すモチベーションとして、そんなことはどうでもいいんです。貧困層または「弱者」の切実なる声を、消されぬうちに記録しておくこと。そして、その声を、雑誌のような一過性の媒体でなく、書籍というかたちで記録しておくこと。


それが、私が赤木さんの本を出そうと思った大きな理由です。ある意味では、たまたまいま編集者をやっている私の生き様が、赤木さんの声とリンクしたのだともいえます。


これで、赤木さんの言説がよいのかわるいのかという価値判断をほとんど排除したかたちで、私が彼の本を出すということが、おわかりいただけたと思います。そして、「彼が声をあげること」そのものには共感しているわけですから、その意味で、双風舎は赤木さんをとことん守ります。いずれにしても、これを機に、刊行する本を出版社が選ぶときには、さまざまなかたちがあるということも、合わせてご理解いただければ幸いです。


最後に、取って付けたような記述で申し訳ありませんが、赤木的若者の声をスルーせず、真摯に受けとめている学者先生や院生さん、そしてマスコミの方々も、確実に存在します。私のまわりには、なぜか少数派なのですが……。そういう方々には、くれぐれも「引き続きよろしくお願いいたします」とメッセージを送らせていただきます。