『ダカーポ』8/3号のインタビュー記事

 同誌8/3号の第2特集は「大『朝日』が沈む日!?」。この特集のなかの「新聞なんてどれも同じ記事だから男性も『家庭欄』で決めてます」という記事で、なぜか私が2ページにわたってインタビューに答えています(93-94ページ)。
 ようするに、もはや大新聞には内容の差異がたいしてないので、男性であっても「家庭欄」が充実しているのかを基準にして、新聞を選んだりしている、という事例となりました。
 記事のなかで触れていますが、新聞記者のなかには協力者を「イヌ」よばわりする人がいます。鬼平犯科帳密偵ではないんだから、いまどきそんな呼び方するなよ、って感じですが。1990年から92年までのカンボジアには、日本の新聞の支局がカンボジアにはありませんでした。で、ハノイバンコクの特派員が兼務のかたちで、カンボジアへ取材に来ていました。
 K同通信は、他紙よりも頻繁にプノンペンへ取材に来ていたので、あるホテルの一室を絶えずキープしていました。それで、その部屋に「引き継ぎノート」を置いて、別の特派員が来たときの情報源にしていたのでした。当時、ハノイ特派員だったA記者は、そのノートに私のことを情報の「イヌ」だと書いていたとのこと。仲がよかったK同の別の記者が教えてくれて、そのことがわかりました。
 K同通信は、一般紙よりも記者の自由度が高く、優秀な書き手が多いと、当時の私は思っていました。辺見庸さんや斎藤茂男さんをはじめ、すばらしいルポを書く人が多かった。それだけに、A記者の「イヌ」発言はショックでした。そして、新聞記者という職種の人たちに幻滅しました。自分が飼い主だと思っている「イヌ」が新聞を買うことによって、あなたたちの職業は成立しているんでしょう。ならば、あなたたち「番犬」を飼っているのは、読者である私たちなのではないか。そんなことを思いました。
 もちろん、そんな呆れた記者ばかりが新聞社にいるわけではありません。クーラーの利いた部屋で助手が集めた情報を組み合わせて記事を書き、適当に仕事を切り上げてホテルのプールで泳ぎ、熱いシャワーをあびてから大使とディナーを食べる、という記者が多い一方で、暑い日差しのなかで地方を歩き回り、みずからの見聞を広めながらオリジナルな記事を書く記者も、少数ながらいました。その少数がたまたま「読売」に多かったので、ダカーポでは「読売」を持ちあげています。