「書評」について

 葉っぱさんのブログで、北田さんの本が取りあげられていました。
 http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050801

 同ブログを起点にして、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(以下、『嗤う』)の書評をいくつか拝読しました。それで、ふと、書評って何なのだろう、などと考えてしまいました。

 まず、それぞれの書評は、とても的確に北田本の特徴を指摘されていると思いました。しっかりと読んだうえで書かれているのが、よくわかります。私自身、同意した部分が多かったのも確かです。
 だがしかし……。疑問に思うところも、いくつかありました。今回は、ただ1点にしぼって、疑問点を書いてみます。
 その疑問は、書評なのか「個人の評価」なのかの境界が、あいまいな「書評」がある、ということです。
 当たり前のことですが、本(とりわけ人文系の学者が書く本)というのは、著者が身を削り、考え抜いて、「その時点での」見解を書きつづったものですよね。とはいえ、いくら考え抜いても、限られた範囲で論点を整理しなければならないので、説明不足な部分が絶対に生じます。ということは、それが生じることにより、批判されたり批評されたりするのが目に見えていながらも、書き手は勇気を振り絞って、あえて本を出しているといってもいい。不満あり、不安あり、不足あり。それでも、あえて出す。
 したがって、読者が実際にその本を読んでみた結果として、その本に対する不満や不足をいったり書いたりするのは、当然のことだと思います。また、「作品」の範囲内での不満な点や不足な点を読者が指摘した場合、たいていの著者はそれを謙虚に受けとめることでしょう。問題点を指摘されて、それに反応したり改めるのかどうかは、著者が学者である場合、人それぞれとしかいえません。間違いが露呈しても、意地になって改めようとしない人もいるし、間違いを聞き入れて、議論を修正する誠実な人もいます。(すくなくとも双風舎の著者は、後者だと自負しております)
 さて、ここからが私の疑問です。著者が「その時点での」思いや考えを記した「作品」としての本を評する場合、「あの世代はこうだから……」といった世代論や、「彼は何人家族で、田舎から上京して大学に入り……」といった出自に、あまりに引きよせすぎるのは、どうなのでしょうか。
 書評とは、著者の「作品」を評するのが本来の目的ですね。著者だって、すべて「作品」のなかで勝負しているわけです。ならば、その「作品」を真っ向から評するためには、ほんとうは評する側も「作品」で勝負しなければ、イーブンの関係にはならないでしょう。でも、「作品」で勝負できる評者など、現実的にはあまりいないであろうからこそ、その代替案としての書評があるのだと私は思っています。
 すなわち書評とは、本来は「作品には作品を」で批評し合うべきものを、それが物理的に困難な場合に、評者の側が「作品を書く」という行為をショートカットして、「作品」の代わりに提示するものなのだと思うわけです。言い換えれば、著者は本という「作品」で勝負して、書評を書く人は「作品」の代替としての「ショートカットした作品」で勝負する、ということになろうかと思います。
 そうだとすれば、「その時点での」思いや考えを記した「作品」を評する側は、その「作品」の議論の範囲内で、「その時点で」の思いや考えを慎重に述べるのが筋だと思います。評する側が、いま述べたような最低限のリテラシーを失った場合、それは書評ではなく、単なる「書評」になってしまうような気がするのです。(書評と「書評」の違いは、以下で説明します)
 評する側は、いつも安全地帯にいて、何でも書ける神様の視点を持っています。たとえば、誰かが北田さんの出自を「想定」して書くこともできる。北田さんの世代がどうだからと、一般化して書くこともできる。それが事実であろうとなかろうと、何でも書けてしまうのです。「作品」の範囲に踏みとどまらずに、神様の視点で書きたいことが書かれたものを、ここではカッコつきの「書評」としておきましょう。
 本を読んで、生真面目にその本を評するのだから、その評者には真剣に著者と向き合ってもらいたいなあ、と思ったりします。北田さんの『嗤う』は、とても禁欲的に書かれた本だと私は思います。もっと詳細に述べたい部分もあっただろうし、読者の誤解をまねくおそれがあるのを承知で、出してしまったところもあろうかと思います。自分のことをしっかりと説明したうえで書く意志もあっただろうし、自分の世代の傾向とみずからの生き様の違いも、もっと説明したかった部分もありましょう。
 それでも、あえて、北田さんはあの本を世に出しているわけです。そんな彼の「作品」を、本来は評者が「作品」で勝負するべきなのに、「ショートカットした作品」で勝負するのですから、評者の側も説明不足になりがちなのは自明です。だからこそ、評者は、説明不足になりがちな、みずからの批判や批評については、著者の禁欲的な意向を意識しつつ、慎重に記すべきだと私は思います。評者の側も、禁欲すべきは禁欲しないと、知らぬ間に神様の発言になってしまいます。私にいわせれば、神様の発言は、書評ではなく「書評」なのです。
 くどいようですが、もう一度書きます。結局、一冊の本を評するのには、本来ならば一冊の本でおこなうべきところを、ショートカットしたうえで、評者は書評を書かれますよね。ならば、説明不足を覚悟でショートカットするわけですから、批判したり反発する記述に関しては、慎重に書いたほうがいいと思うのです。
 そういう意味で、「北田さんの世代は、こうだから……」と安易にバッサリ斬ったり、「北田さんの出自は、こうだから……」と安直にバッサリ斬ったりするような書き方は、北田さんのことをよほどよく知っているという場合を除いては、する必要がないのではないか、と思うわけです。評する側が、それくらいの禁欲をしたって、いいのではないか、と思うわけです。だって、そんなことをいいだしたら、「作品」対「ショートカットした作品」としての品位が、確保できないじゃありませんか。
 一部の『嗤う』の批評を読んでいて、「書評」で「個人の評価」をするのではなく、書評で「作品」の評価をしてほしいなあ、と思いました。さらに、書評に「神様の視点を持ち込まない」というリテラシーが必要なのではないか、とも思いました。それが今回、もっとも私がいいたいことです。

 ここまで読まれて、「品位なんてどうでもいい」とか「自己満足の自己責任で書いてるんだから、いいじゃん」と思っている方の「書評」は、すくなくとも著者には届かないと思います。また「本をみんなに紹介する目的なんだから、著者に届かなくてもいい」という方がいるかもしれませんが、それはちょっと無責任なスタンスだといわざるを得ません。だって著者も、そうやって書かれる書評という「ショートカットした作品」の読者のひとりなんですから。
 以上、「書評」ではなく書評が読みたいなあ、と思う私の戯れ言でした。「こんなことを書いているお前は、北田のシンパなんだろう」といわれれば、「そうです」と答えざるを得ません。以下、最大級に照れくさいことですが、あえて書くことにいたします。
 傲慢な言い方になりますが、私は彼の今後に、大いなる期待をしています。期待する最大の理由は、これまでの短い付き合いのなかで、彼が単なる「頭でっかち」ではない、という確信に近いようなものを持てたからです。
 北田さんは、まだ30歳代なかば。重箱の隅(それも根拠のない空箱)をつつくのではなく、長いスパンで言動を見守っていこうではありませんか。「書評」ではなく、書評を書けば、彼もきっと反応してくれると思いますし。そういう人です、北田さんは。
 北田さんには迷惑なのかもしれませんが、「この人、面白そうだ!」と思ったら、徹底的につきまとう。銀蝿と呼ばれようが、小判鮫と呼ばれようが、くっついていく。それが編集屋の性(さが)でござんす。ただし「この人、面白そうだ!」と思ったからといって、その人の考え方にすべて合意しているわけではござんせん。肝心なのは、何かを「共有」できていることなのでござんす。

 では、異論反論、お待ちしております。