「書評」について 2

 pipiさん、貴重なコメントをありがとうございました。毎度ながら、コメントへの返答が長くなりそうなので、ブログ本文にて応答いたします。

 pipiさんの書かれたものが、北田さんの「作品」への、ある種の愛情のようなものを前提として書かれていることは、私に伝わってきました。世代論を書いている著者が、世代論で斬られるのも、これはいたしかたない。
 とはいえ、「●●年生まれの世代は……」とザックリ分別したうえで、その世代の空気や気分にどっぷりと、北田さんが浸かっているのかどうかは、あの本を読んだだけではわかりませんよね。たとえば、私は1964年生まれの世代なのですが、90年から10年以上も日本で暮らしていない(バブル経済が浮き沈みしていた最中)と、同世代の人びとが持つ世代の気分みたいなものが、あまり共有できなかったりします。で、共有できないのに、「お前も1964年生まれの世代だから、●●だねえ」といわれても、まったくしっくりきません。
 何がいいたいのかというと、世代論を論じる著者を世代論で斬るのはいいのですが、その斬った世代論に著者がどっぷり使っていたのかどうか、また著者に世代を代表させてよいのかどうかは、世代論で著者を斬るのとはまた別の次元の話であるような気がするわけです。
 最近、ブログなどで、北田さんと東浩紀さん、鈴木謙介さんを「やっぱ、あの世代のいっていることは同じだ」とか「いっていることが似ている」というようなことを、印象論で語っている人がいるようです。たしかに、彼らの言説のなかに共通する部分はあるものの、よく読めば三人三様です。三人を一色に染め上げるようなことを書いてあるのを読むにつけ、この書き手は三人の議論をちゃんと読み込んでいないのではないか、と思ったりします。
 まあ、以上のようなことを考えるかどうかは、人それぞれです。pipiさんのような世代論への対処もあろうし、世代論を斬る場合も著者の気分をすこしは想像しながら書いた方がいいという私のような考え方もあります。それでいいと思います。
 ただし、ここで私がいいたいのは、ただひとつ。北田さんが「●●年世代だから、■■だ」と論ずる場合には、やはり「どうしてあなたは『北田さんが●●年世代だから、■■だ』といいきれるのですか。その根拠は何なのですか」という問いに答えられる材料を準備しておく責任がある、と私は思います。そういう材料もないのに、印象だけで語ったり書いたりしたとたん、神の声になってしまうのだとも思います。こういった議論は、仲正さんの『なぜ「話」は通じないのか』にも通じるものかもしれません。
 勝手なことばかりいって申し訳ありませんが、pipiさん、今後ともご批評くださいませ。

 私がこんなことを「あえて」書いているのは、出版社の編集と著者との関係が、どんどん希薄化し、サラリーマン的なものに変貌しているからかもしれません。自分が担当する著者が、ブログで何を書かれようと、おかまいなしという人が、あきらかに増えています。一方で、大新聞や大雑誌への書評掲載に関しては、アホみたいに力を注いで取り組む。
 にもかかわらず、巷で氾濫する著者への罵詈雑言や中傷などについては、まったく干渉せずに、別の著者と飲んで騒いでカラオケやって、編集者ライフをエンジョイしている。または、一度にたくさんの企画を抱え込みすぎて、一人ひとりの著者への気配りをする時間が、物理的になかったりする。
 そんな関係であっても、著者は、大出版社から本を出すことにより、ネームバリューやら印税やらのメリットを享受したりするため、そんな編集とも付き合う(宮台さんのように、そういう方がたとは付き合わないし、そういう出版社からは本を出さないという稀少な人も、ときどきいます)。もちろん、そうじゃない編集者もいますが、サラリーマン的な人が増えているという傾向は、間違いなく進んでいます。
 私は、そうはなりたくないなあ、と思っています。これはカンボジアで感じたことですが、「肩書き」の問題と関わってきます。カンボジアの農村で調査をするときに、「肩書き」は一切、通用しません。私が「神奈川大学の大学院生です」とか「NHKのリサーチャーです」といっても、彼らは「はあ?」といっておしまいです。「肩書き」が通用しない世界で人間関係を取り結ぶときに、もっとも重要なのは、パーソナリティーだといえます。楽しい会話ができるか。共通の話題があるのか。表情や振る舞い、服装、持ち物など、「肩書き」とは関係ないことばかりが重視されたうえで、彼らは私を認めるかどうかを判断します。
 これは、けっこうキツいことです。日本だったら、難関試験を突破して、K談社に入り、著名人に本を書いてもらおうと思ったら、「K談社の●●です」といえば、その著名人はけっこう会ってくれたりします。逆に、著者がその人と関係を取り結んでいるのは、その人がK談社の人だからなのかもしれません。でも、そのK談社の人がカンボジアにいって、「K談社の●●です」といったって、まったく無意味なのです。
 このように、日本では重視され、重宝する「肩書き」が、日本を一歩出てしまうと「あまり意味ないじゃん」ということがわかってくる。それがわかってくると、人間関係を「肩書き」ではなく、パーソナリティーで構築するクセがついたりします。パーソナリティーで付き合うということは、全身で付き合うということです。そして、こちらが全身で付き合うと、相手も全身で答えてくれるような傾向があります。当然、こちらが全身でも、相手が半身ということもありますが……。
 で、全身で付き合うということは、「肩書き」経由のサラリーマン的な付き合いをするのではなく、もっと相手にコミットしたかたちで付き合うということなのだと思います。ノスタルジーに浸るわけではありませんし、浸るほど出版の歴史を知っているわけではありませんが、著者と編集の関係とは、以上のような全身をもってする付き合いであるような気が、私にはしているのです。
 そんなわけで、私は北田さんの本の書評に対して、あえて以上のようなことを書いている次第です。
 ちなみに、この「肩書き」問題は、日本における「世間」の問題と深く関わりがあります。そして、阿部謹也さんの「世間」へのまなざしは、私たちも共有しなければならない、とても重要なものだと考えています。そのうち「世間」に関する本も、かならず出そうと思っています。
 そういえば、その昔、大橋巨泉の「こんなものいらない」なんて物議をかもした番組がありましたね。まさに「世間」は、「こんなものいらない」です。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)