『デリダの遺言』の序文

 お待たせいたしました。仲正昌樹著『デリダの遺言』(10月20日発売予定)の序文を、以下に掲載します。感想などありましたら、ぜひコメント欄に書き込んでください。ちなみに、同書のサブタイトルは「『生き生き』とした思想を語る死者たちへ」です。

 序文


 本書のタイトルは『デリダの遺言』であるが、別に二〇〇四年に亡くなったデリダの思想を忠実に再現することを目指して書かれた本ではないし、そもそもデリダの解説書でさえない。ここで書かれているのは、デリダを含む何人かの現代思想家たちの言説を“適宜”利用しながら展開していく、著者の独断的かつ表層的な見解である。よって、デリダ自身の思想は、かならずしもメインになってはいない。「デリダ亡きいま、その遺志を継いで現代思想をリードできるのは、私だけだ!」というような誇大妄想に取りつかれているわけでもない。いっそのこと、それくらい思い込みの強い人間になれたら、きっと楽だとは思う。だが、なかなか楽にはなれない。
 また本書は、デリダのように、ごく少数の専門家にしかついていけない、きわめて難解な文体や不思議な言葉を駆使しているエクリチュール(書かれたもの=書く行為)でもない。いま書いているこの序文自体がそうであるように、それほど難しくはないはずである。思想的な本の著者には「(私の)心に響く生きた言葉」を語る義務があると勝手に決め込み、自分の知らないむずかしげな言いまわしがテクストのなかに出てくるや否や、「言葉が生きていない!」という言いがかりをネットに「書き込む」ことが習慣となっている人がいる。さらに、神のごとき”素人哲学者”さんにとっては、どう書こうと「むずかしい死んだ言葉の連なり」ということになるのだろうが、現代思想系の文章を普通に読み慣れている読者にとっては、どちらかというと、カンタン系に属するはずである。
 では、デリダとそれほど関係のない本に、売りのために、強引に彼の名前を借りた“だけ”なのかというと、そうとも言い切れない。デリダエクリチュールに繰りかえし登場する重要テーマのひとつに、「音声中心主義」批判というものがある。それは本書のメイン・テーマでもある。その意味では、デリダが書き残してくれたエクリチュール(=遺書)を、書き続けていこうとする意図をもった本であるということはできる、と著者としての「私」は思う。そういうことをいうと、「デリダが『いおうとしていた』のは、この本に書かれているような、陳腐で下卑(げび)たことではない。偉大な哲学者を冒涜(ぼうとく)するな」と、デリダの「真意」に基づいて、「私」を責めるデリダ専門家――あるいは、その手の“専門家”を装って、いつものパターンの「書き込み」をやる2ちゃんねらー――も出てくると思う。確かに、これはどう考えてもテリダの「真意」を再現しようとする本ではないわけだ。
 とはいえ、“心”ある読者は、すこし立ち止まって考えてほしい。テリダが書き残した膨大なエクリチュールの背後に、彼が本当に「言いたかったこと」、つまり彼の「真意」が隠れているという大前提に立って、それから「ズレる」ものを間違った理解として排除することに、どれだけ意味があるのだろうか? デリダ「自身」がもういない以上、霊能者(medium)でもない限り、本人を呼び出して、どういうのが「正しいデリダ理解」で、どういうのが「間違ったデリダ理解」なのかを聴くことはできない。これまで彼が「書いてきたもの」をざっと見わたして、だいたいこういうのが彼の「言いたいこと」なのではないか、と類推することはできるかもしれない。しかし、それは絶対的に確かな解釈ではない。くわえて、思想系の本を書く人のなかには、本文の執筆が最後に近づいたところで、「……と述べてきましたが、残念ながらじつは……」とひねりたがる私のようなタイプの人が、すくなからずいる。デリダは、テクストの、あるいはエクリチュールのいたるところでそれをやる。よって、デリダをいくら細かく読み解こうとしても、「これぞ彼の真意だ……」という部分がなかなか見えてこない。
 では、デリダのように「死んでいる著者」ではなくて、「生きている著者」の本人をつかまえて、「このテクストに、こういうことが書いてあります。これを書いた時点でのあなたの真意は何ですか?」とたずねたとしよう。本を執筆したあとに、その著者が答えた内容は、テクストの「真意」と見なされるのであろうか。けっして、そう簡単にはいかない。まず、その著者が嘘をついている可能性があるし、それを書いたときの“真意”を本人自身が忘れたり、記憶が変形していたりする可能性もある。さらにいえば、他人の批評に触れたあとになって、ようやく自分の“真意”に事後的に気づくこともある。ネットでの批評文の圧倒的多数は、便所の落書き――むろん、落書きにも落書きなりの社会的「意味」はある――よりひどいものだが、まれに、批評された著者が「私はこういうことを書いたのだ」と感心するものもある。しかも困ったことに、いろいろな批評を見ているうちに、事後的に発見した“真意”が、時間が経過したあとで、さらにズレていくということがある。
 「私」のように“真意”がころころ変わるのは、カントの真意やヘーゲルの真意、そしてマルクスの真意などを口にしたがる各哲学教団の信者たちにとって、腰がすわっていない「立ち位置系」の思想屋――どういう脈絡でそう思ったのかは知らないが、2ちゃんねるのスレッドに、たいして印税で儲けていない私のことを、「思想屋」と評している書き込みがあった――ということになるのだろう。だが、それらの大思想家の“真意”が、ある時点(たとえば本を書き上げた時点)から生涯の終わりまで変化しなかった、ということは証明できない。神ではないので、他人の「心の動き」を読み切ることは誰にもできない。我われが参照することができるのは、どこまで当人の“真意”に対応しているのかわからないエクリチュールだけなのである。エクリチュールを解釈する絶対的権威を持つ存在は、著者自身を含めて存在しない――一番信用できないのは、著者自身なのかもしれない。
 「私」が書き残したエクリチュールは、けっして“私の真意”を忠実に映し出す透明な媒体ではない。“私の真意”は、それがエクリチュールとして「書き留められた」時点で、すでに「私のもの」ではなくなっている。むずかしい言い方をすると、「疎外態」になっている。ネット空間のなかでの「書き込み」の無秩序的な連鎖に象徴されるように、エクリチュールというかたちで、疎外態としていったん「私」の外に出た言葉は、本当にあったのかどうかわからない“私の意図”を離れて、ひとり歩きしはじめる。「私はそんなつもりでいったのではない!」と叫んでも、私の一言をネタにしてはじまった「書き込み」の連鎖を止めることはできない。「私」は、私が生み出したエクリチュールの主人ではないのである。
 ちなみに本書のタイトルは、私の発案ではなくて、私の「書いているもの」を途中から読みはじめた谷川さん(双風舎代表)の「読み」から生まれたものである。また副題のほうも、この本のもとになった企画について、ほかの出版社の編集者と相談しているうちに出てきたものである。本文を著者として書いた“私”と、「いま、ここ」――具体的にいうと、二〇〇五年八月二十六日未明に、金沢市平和町の公務員宿舎――でこの序文を書いている「私」は、まったく同じ“意図”を持っていないはずだし、この本が出版された時点での「私」の“意図”は、さらに変容していることだろう。
 「言葉」というものが、それを発した生身の人間によるその時どきの気持ちを、直接的に生き生きと「表象 represent」するはずのものであるとすれば、エクリチュール化されて疎外態になった“言葉”は、あきらかに「死んでいる」。生身の人間の“意図”から切り離されていて、「生き生き」していない。「私」は、「言葉」が発せられた瞬間に「死んで」しまうのは、仕方のないことだと思っている。とはいえ、そう思わないで、人びとの真意を伝えられる透明な媒体としての“真の言葉”を求めたがる人たちが、世の中にいることが問題なのだ。
 家族や友人、好きなタレント、作家、そして尊敬する政治家や思想家たちの“真意”を知りたいと願っている人にとって、生き生きしていないエクリチュールは、無機的な文字の連なりになってしまっているので、かえって“真意”を知ることを妨げていると思えるときがある。そこで、エクリチュール化されたものではなくて、当人の口から直接的に発せられる「生の言葉」を、“ホンモノ”としてありがたがる「音声中心主義」的な傾向が生まれてくる。官僚が「書いて」くれた作文を、たんたんと読みあげていた歴代の首相と違って、自分の「生きた言葉」――おそらく、「本音」や「真意」のことを指していると思われる――で語りかけてくれる「小泉さん」には、人気がある。トーク・セッションやトーク・ライブなどで、エクリチュールでは見られない「生きた言葉」で語りかけて、その“人間性”をあらわしてくれる作家や思想家も、人気がある。
 普段は忙しくて、むずかしい本など読むことができない人にとっては、日常生活に根ざし、しっかりした現実感覚を持っていて、庶民の「心」に響いてくるような「生きた言葉」のほうがいい、ということになる。もっと極端になると、その「生きた言葉」が、役人や知識人が使っているジャーゴン(専門的でわかりにくい言葉)では許されない。庶民、とりわけ「おかみ」の支配のもとで公的な場での発言権を与えられてない「苦しんでいる民」が、日常的に慣れ親しんでいるものでなければならない、という話になっていく。
 ようするに、「庶民」感覚に根ざした「心」と「心」が触れ合う「生きた言葉」の反対項が、エリートたちが庶民を欺くために使う、血の通っていない、いかにも作文したような「死んだ言葉」である。“一般大衆”をお客さんにしているマス・メディアや企業広告が、お客さんを味方につけるために、庶民に耳心地のよい「生きた言葉」というイメージを乱発するのは、ある程度は仕方がない。しかしながら、最近では、もともと「死んだ言葉」としてのエクリチュールを操ることを生業とする思想家や哲学者、そして評論家まで、「庶民の心」にじわっと伝わる「生きた言葉」を語ろうと必死になっている。「生きた言葉」を語らないと、罵倒されて、舞台からおろされる。人間としての「生の声」から疎外され、エクリチュール化のなかで硬直化して「死んでしまった言葉」を、機械的に反復することしかできない奴には、用がないのである。「私」のように、過去の偉い思想家のエクリチュール化された言葉しか語れない奴は、「庶民の生き生きした言葉」を抑圧しようとする敵なのである。
 こうした「生きた言葉」にもとづく「生きた思想」というイメージは、「生き生きした言論」の場からすこしだけ引いて考えてみれば、かなり怪しいものであることがわかる。第一に、あらゆる人間の言葉は、自分で発明したものではない。どんな庶民の“人間味あふれる言葉”であっても、自分以外の誰かから教えてもらったものであり、自分のオリジナリティなどごくわずかである。他人から教えてもらい、型にはまった言葉ではなく、私の“心の叫び”を“自然”と伝えるものこそが、「生きた言葉」であるとすれば、「生きた言葉を語る庶民」など、この世界のどこにも存在しない。先に述べたように、あらゆる人間の言葉は、口の外に、つまり音声として出た瞬間から、どこかで聞いたり読んだりしたような言葉として(エクリチュール化されて)、「再現 represent」される。そもそも、どこかで聞いたり読んだりしたような「言葉」として「表象=再現」されなければ、「意味」のある言葉として他人に理解されるはずはない。エクリチュールとして記号化されていなかったら、ただの雑音でしかなく、その印象はすぐに消え去ってしまう。
 第二に、「庶民の生活感覚に密着した言葉」といっても、庶民は日常的にいろんなことをしゃべっている。一日中、「感動した」とか「泣けたよ」などといっているわけではない。そんなせりふを口にするのは、ごくまれである。テレビのバラエティ番組を見て、アイドルや芸人のパフォーマンスをネタにしたり、近所のオバさんや会社の同僚の悪口をいっているほうが圧倒的に多いが、そんな言葉の断片をとらえて「生きた言葉」ということはまずない。マスメディアや生き生き知識人たちが、好んで取り上げる「生きた言葉」というのは、センスのない服を着て、しゃれた言い回しを知らないような、いかにも“庶民”らしい人が、権力者などに対して怒ったり、「反権力闘争に勝ち、感動して泣いている」といった“劇”的な場面で発せられる――当然のことながら、けっしてオリジナリティがあるわけではない――せりふである。
 しかも、そうした劇的な場面でのせりふのうち、「生きた言葉」として認定され、メディアに記録されるのは、一定の決まった型にハマっている言葉、つまりすでにエクリチュールに登録されている言葉である。たとえば、「偉い学者の先生には、俺らの気持ちなんかわかりっこないよ」といった、時代劇にでも出てきそうなせりふである――たぶん、それを口にした“庶民”も、時代劇を見てそのせりふを覚えたのだろうと想像できる。そういう言葉が、「庶民の生きた言葉」として新聞や雑誌で活字になったりすると、知識人も、それくらいの字や文は読める庶民も、そういう言葉こそが“生きた言葉”だと考えるようになる。「死んだ文字」からなる活字が、「生きた言葉」を「再現=表象」するという逆説が生じているわけである。それが、デリダが問題にしている「音声中心主義」のおおよその本質である――「おおよそ」としておかないと、「意味」のズレが大きくなるので、そういっておく。エクリチュールが、生きた「語り言葉(パロール)」の「再現=表象」様式を根底において規定しているにもかかわらず、エクリチュールによる支配が見のがされ、あたかも「生きた言葉」がいかなる媒介もなしに、“自然発生”するかのように見なされてしまうことを、デリダは問題にしているのである。
 では、「生きた言葉」のエクリチュール性が隠蔽されてしまうことは、なぜ問題なのか? その理由を、デリダ自身はそれほど具体的に語ってくれていないので、それを「私」なりに「補う」――デリダの重要なキーワードのひとつに、(エクリチュールによる「自然」の)「代補」というのがある――かたちで書いたのが本書である。
 とりあえず、生き生きした左翼な人向けの事例として、「小泉さん」や「真紀子さん」たちの、庶民の心に響く言葉のことを考えてみたらいいだろう。彼らを嫌っている左翼の人たちにとっては、彼らの言葉は空疎きわまりない騙しの言葉であっても、それは彼らの信仰者にとっての「心に響く生きた言葉」なのである。一度「生きた言葉」の魔力に取りつかれてしまうと、まわりの人たちがどれほど「あれはおまえを騙す悪魔による死の言葉」だと騒いでも、信仰者らの目は覚めない。いや、騒げば騒ぐほど、呪縛は強くなる。当然、こうした「生きた言葉」の呪縛は、右からだけでなく左からも生まれてくる。「権力者の言葉は殺し、庶民の言葉は生かす」などと、キリスト教の教えを変形したようなせりふを繰りかえしているうちに、「音声中心主義」にハマってしまう。対立している双方が、同じように「生きた言葉」の呪縛にかかり、相手の信仰はインチキで、自分の信仰はホンモノだと信じている。そのように、お互いが鏡に写った像のように同形的な発想をしている状態を「二項対立」と呼ぶ。
 ちなみに、ネット上で「生きた言葉」というのを検索すると、「イエスの生きた言葉」や「釈迦の生きた言葉」といった、偉大な教祖や聖人の教えを意味するものが、やたらと出てくる。これらの「生きた言葉」というものが、そもそも本人が実際に語ったのかどうか確かめようがない。にもかかわらず、権威ある教典(エクリチュール)のなかで「……と語られた」ということになっているおかげで、その権威を受け入れている信徒にとっては、「生き生き」と聞こえるものである、ということあきらかだろう。イエス=キリストを信じない人間が、「イエスは、自分で新訳聖書を書いたわけじゃないだろう。本人に直接会ったこともない弟子が、適当に作文したんじゃないか」という感じの懐疑的なことをいくらいっても、本気で信じている人間は「これは神の試練だ」と思って、よけいに「生きた言葉」への信仰を深める。ちょっとややこしい理屈をいうと、「教典」に権威があるのは、「生きた言葉」を「再現」しているからであり、「生きた言葉」が「生きている」という証は、それが「権威ある教典」に登録されている、という循環構造になっているのである。宗教のほかにも、左翼・市民運動団体や「新しい歴史教科書をつくる会」のような右系団体の宣伝ページでも、自分たちこそ「生きた言葉」を語る、心ある者たちであることが強調されている。それら左右のグループ内における「生きた言葉」に対する信頼性もまた、それぞれの団体の“生き生き”した綱領的な文書(エクリチュール)に支えられているのである。
 ここでようやく、本の「序文」らしい説明をしておくと、本書で論ずるのは、日本の現代思想の業界に、このところ蔓延し続けている「生きた言葉」の問題である。「生きた言葉」のエクリチュール性が意識されないことによって、どういう弊害が生じているのか。そして「生きた言葉」が近代の思想のなかで、どのようにあつかわれ、かつ批判されてきたのか……。この手の本――どういうのが「この手の本」かわからない人は、もっと勉強してください――では、思想史的な流れや現在の問題を指摘したあとで、なにがしかの「解答」を出さなければならない、というのが習わしになっている。だが、そういうことを、「私」はやらない。というか、現代思想の業界で、何かというと「解答を出せ!」と急かす傾向があるのを、狂った傾向だと私は思っている。多くの場合、「解答を早く出せ!」と叫ぶ人は、「生き生きしたもの」を追求する自分なりの路線が正しいと信じて疑わない人間であり、そういう意味のない急かしをまともに取り合っていたら、私もまた、「生き生き」路線にハマってしまうことになる。そもそも、このテーマで無理に「解答」を出すとしたら、「『生きた言葉』を追求するかわりに、△△の言葉を語る」というようなかたちにならざるを得ない。しかし、そんな答えを出したら、△△が仲正ヴァージョンの新しい“生きた言葉”になってしまうだけである。そういうバカげた話を再生産するのがイヤだから、その“真意”のマニフェストとしてこういうものを書いているのである。
 構成としては、第一章で、すこしだけ私自身の――さほど「生き生き」はしていない――個人的体験にそくしつつ、「生き生き」がどういう場面で、どういうふうに使われているのかを論じる。そして第二章と第三章では、「生き生き」への賛否をめぐる思想史を、かなり大雑把に概観する。第四章で、思想業界における「生き生き論客」たちのあり方を批判的に検証し、最後の第五章では、「解答」や「代案」を記すのではなく、私個人がどれくらい「生き生き」を嫌っており、どのようにして「生きた言葉を語る死者」にならないよう、心がけているのかを説明する。実際に「生き生き」と威勢よく書いた文章ではないので、“心”の底で「生き生きしたもの」を期待している人は読まなくてもいい。これだけ何度も断っているのに、2ちゃんねるや「はてな日記」に、「生きた言葉で書かれていなかった」「薄っぺらの言葉が素どおりしていった」「心に響くような、深い問いかけがなかった」といった、ステレオタイプな「死んだ決まり文句」を書き込まれるのは、うんざりである。