インリンのブログと歴史認識

 ブログをまわっていたら、セクシータレントのインリン・オブ・ジョイトイが書いているブログにたどりつきました。タレント的日常が、おもしろおかしく書かれた内容なのですが、ときどき「あえて」議論を巻き起こすようなことを書いたりしています。ご存知の方も多いのだとは思いますが、ちょっと引用しておきます。
 まず8月12日の日記より。(http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50100899.html)

ちなみに今日は、平和を愛する私としてはマジ許せない事が東京で起きました。
日本の侵略戦争を否定して美化してる人達が作った歴史教科書を杉並区が採用したんです(>_<)
日本人は過去の過ちを認めて反省して教えて、そしてアジアの国と平和な未来を築くべきだと思います。
今の若者に過去の責任はないけれど、過去の過ちを正しく知る権利と義務があると思います。
恐ろしい事に巻き込まれない為には、
何が恐ろしいか知っていなければ反対出来ません。
残念ながら、日本が侵略戦争を行ったのは事実です。
嘘で事実をごまかすのでは、日本人も含めた戦争犠牲者がかわいそう!
嘘の教育をしたら、また、未来の戦争犠牲者と加害者を作るだけです!
だから、女の子がセクシーで目標のある自立した人生を生きる為に、
絶対に守らなければならないこと
それは平和と自由と平等ってことなんですよね☆

 つづいて8月15日の日記より。(http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50112375.html)

8・15終戦の日にこだわりたい
日本国憲法
第三章 国民の権利及び義務
第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
1;信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2;何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3;国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

9・11選挙の日にこだわりたい
 》日本国憲法
第二章 戦争の放棄
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1;日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2;前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・・・・って、今や地球規模で広めたいとっても大事なこと!
私は、こんな平和的で中立的で進歩的な憲法のある日本を尊敬してます☆
8・15の今日こそ、私が皆さんにお願いしたいのは、
9・11には、こういうすばらしい憲法を守ってくれる人だけに投票しましょ!
ってことです☆だって残念な事に、外国人の私には選挙権ありませんから・・・・。
私は、10歳から日本に住んでます。
平和を愛する文化的な日本が大好きです。
私は台湾人<中国人として、台湾にも中国にもいろんなイヤな問題があるのはよ〜くわかってます。
去年は中華系の世界的芸術家18組の一人の選ばれ、台湾と中国大陸の間にある金門島で個展をやりました。
その時は、しっかりと台湾と中国政府を批判して、平和の為のエロテロパフォーマンスをして来たんですよ〜☆
そして今年10周年を迎えたユニット「ジョイトイ」の作品ではいつも、
セクシー&パロディを武器に、人間の平等と平和をテーマに表現を続けてます。
天安門紫禁城、在上海ロシヤ領事館、嘉手納基地等でのゲリラ撮りを皆さん楽しんでくれたと思います!
私に出来ることは小さいことかもしれません。
けど、これからも、国とか政府とか民族の勝手じゃなくて、世界中の普通の人々の生活が少しでも平和であることを願って、M字開脚を続けます(笑)

 前者の日記へのTBは300強、後者は250強。眞鍋かをりもすごいが、インリンもすごい。彼女の意見を純粋に支持する人。自分の意見は違っても、「ファンだから」支持する人。「ファンだけど」支持できない人。まったく支持できない人。そして、あいもかわらず匿名で誹謗中傷する最低の輩……。このブログを訪ねるだけで、いろんな意見の人がいるってことも、(名の売れた人が)ブログを書くリスクも、よーくわかります。

 教科書問題については、当ブログでも瞬間的に盛り上がりました(7月13日)が、私の意見はインリンに近いものでしょう。中国系(籍が台湾なのか中国なのかは、申し訳ありませんが知りません)のインリンがこのように考えるのは、至極当然のことだと思います(もちろん台湾にも中国にも、親日派が存在するということを認識したうえで)。
 ただし、上記のような書き方だと、どうしても党派性の強い左翼の言説との見分けがつきにくくなるような気もします。また「広島・長崎を忘れるな。日本は戦争被害者だ」という被害者的側面のみを主張したがる右系の人にも、食いつかれてしまう余地がありますね。
 さきの戦争における広島・長崎という被害者の側面を忘れてはならないことは、当然のことです。しかしながら、その一方で、同じ戦争のなかで加害者的な側面があったことも、否定のできないことです。それを否定してしまうと、インリンのいう「嘘」になってしまう。
 戦争の加害者的な側面は、被害者の証言により、ある程度の輪郭を理解することは可能です。でもそれは、あくまでもおぼろげな輪郭です。その側面をくっきりと浮かびあがらせるためには、加害者自身による証言が必要不可欠になると思います。
 とはいえ、加害者は自分の悪事をすすんで世に公表したくはない。さらに、その悪事は、自分の責任ではなく、組織的なしがらみによって強制的にやらされたので、悪事ではない、という人もいるでしょう。だからといって、戦中に人を殺したり殴ったしたことを簡単に忘れられるのかといえば、そうでもない。忘れないからこそ、語らないのだともいえます。

 私が、カンボジア大虐殺を勉強しているときに感じたのは、「被害と加害を秤にかけて、どっちが重いのか」などということを議論することには、あまり実りがないということでした。被害は被害として洗い出し、加害は加害として洗い出し、その双方の情報を得た個々が、「じゃあ、あの戦争って、何だったんだろう?」と考える。そして「あの戦争が何なのか」という受けとめ方については、個々の判断にゆだねる。
 ある程度の年齢になったら、そういう歴史教育をしてもいいのでは、と思ったりします。でも現状では、圧倒的に加害者情報が不足しているのも現実。そうなると、加害者情報の収集が、戦争の歴史を理解する鍵になるわけです。それも、けっして自虐的なものではなく、かなりクールなかたちで情報を集めることが、重要です。
 被害者情報を集めるのは、よほどの言論統制がなされていないかぎり、簡単です。カンボジアならば、訪問当日に何十人もの被害者と出会うことができるし、話も聞ける。問題は、加害者側の情報です。前述したような理由で、加害者は語りたがらない。ポルポト時代に「政権の手先となって人をたくさん殺した」という人を特定するだけで1カ月。その人に会うまでさらに1カ月。その人から「殺しました」という証言を得るまで、さらに半年かかったりします。
 しかし、こうした長期にわたる重苦しい加害証言の収集は、苦難がつきまとうぶん、スリリングで、高い達成感を味わえるものです。けっして「つまらない」ものではありません。やっていて思いましたが、とても(知的に)面白いものです。若手研究者がそういった研究に食いつかない原因の一端は、「加害証言の重要性」や「それを追求する意味」「それを研究することの面白さ」を伝えられない、研究者を育てる側の問題もあるような気がします。日本だけでなく、ルワンダにだってコソボにだって、研究素材はごろごろ転がっています。

 この手の話は、すぐにイデオロギーへと還元されてしまい、「細かいことはどうでもいいから、ナショナリズムでいこうぜ!」という風潮になりやすい。でも、そんなことをいっていたら、日本はアジア諸国に干されてしまうような気がします。アジア諸国と日本とが共存していくためには、さきの戦争における被害と加害をクールなかたちで見つめなおす必要があろうかと思うし、最低でも「クールなかたちだけど、俺はさきの戦争に関する被害面も加害面も認識してるよ」とアジアの人びとにいえるようにすべきだと思います。いや、ニッポンの「国益」を考えれば、そう思わざるを得ません。

 一方で、アジア諸国の若者には、「過去のことは保留にしておいて、とりあえずお互いのメリットを享受し合おう」といった気運も、確実に浸透しつつあります。K社にいるとき、山田ゆかりさんというスポーツ・ライターの『日本はライバルか?』(ISBN:487652422X)という本をつくりました。コリアン・アスリートたちの日本への思いをつづった本です。この本を読むと、韓国では世代によって、「反日」の度合いがかなり違ってきていることがわかります。
 それはそれで、悪いことではないと思います。とはいえ、あくまで「保留」なので、何かの拍子に問題が噴出する可能性があります。とくに戦争の被害情報は、若者が知りたいかどうかということを抜きにして、年長者から脈々と言い伝えられていきます。その噴出に備えて、とりあえず加害情報をインプットしておく。で、戦争での加害的な側面について、たまたま日本に生まれてしまった者としての道義的な責任があることは、クールに認める。それを認めたからといって、恥をかくわけでも何でもないんだから。

 そういう姿勢が大切だということを実感できるのは、やはり実際に海外で(それもアジアで)、現地の人と腹を割って話したときなのかもしれません。その意味では、若いうちに海外への(それもアジアへの)旅をしてほしいですね。
 同時に、ときには、日本国内にいる海外の方や在日など外国籍の方(帰化した方も含めて)の声に耳を傾け、「なぜ彼らが日本にいるのか」ということを考えてみる。そういう知的好奇心を持つことも、大切なことだと思います。
 たとえば、上記で引用したインリンは、なぜあのようなことをブログに書くのか。たとえば、和田アキ子は、なぜ今のタイミングで、みずからが在日であることを『週刊文春』でカミングアウトしたのか。
 ちょっとカルチュラル・スタディーズ的かつポストコロニアル的な物言いになりましたが、「日本における両者の政治的なコミットの度合い」という部分を除けば、私はこのふたつの学問を支持しています。実際、アジアに長期滞在をして研究をすすめると、このふたつの学問から学ぶことも多い。この点では、宮台さんと見解を異にします。

 ほんとうは、「話」が通じない人たちへのインリンの断固たる姿勢についても紹介したかったのですが、さらに話が長くなりそうなので、TBのみしておきます。自分の話を聞いてもらいたかったら、人の話もちゃんと聞く。自分の書いたことを読んでもらいたかったら、人の書いたものもちゃんと読む。書いた人が自分と違う意見であっても、噴きあがらず、熱くならず、書き手に礼儀をつくしてコメントをする。そんな当たり前のことができず、目先の議論に勝った負けたと一喜一憂している輩が、いかに多いことか……。

 以下、9月12日付けインリン日記のTBです。
 http://blog.livedoor.jp/yinlingofjoytoy/archives/50185608.html