「加害者の証言」の意味 その1

 前回のブログで、戦争を評価するうえでの加害者証言の重要性についてふれました。ただただ文献を読んだだけでそう判断したのではないし、適当に思ったことを場当たり的に書いたわけではありません。一応、農村調査や取材をとおして、そう思うにいたったということを知っていただくために、4年前に私が書いた記事を、2回にわたって転載しておきます。
 今回は連載2回のうちの第1回分です。媒体は『週刊金曜日』(308号、2001年3月24日)で、タイトルは「加害者側から見たポル・ポト政権」。まあ、そのものズバリのタイトルです。

 この記事から浮かびあがってくる最大のポイントは、被害者は「システム」がわからないまま殺されるが、加害者はみずからが置かれたポジションの範囲で、虐殺の「システム」を知っている、ということです。
 このことは、植民地化されたアジア諸国の人びとと、旧日本軍の幹部や兵士の関係性にも、そのまま当てはまることでしょう。また、葉っぱさん(id:kuriyamakouji)が指摘されるように、原爆を落とされた側の日本と、落とした側のアメリカの関係性にもいえることです。
 戦争や虐殺のシステムを知らなければ、人間なんてもともと暴力性を秘めた存在なのですから、同じシステムで同じことを繰りかえす可能性があります。システムを知っていれば、発露されそうになった暴力性を、事前に抑止することができるかもしれません。
 戦争の加害性をいったり書いたりすると、すぐに「左翼だ」「自虐だ」というレッテルを貼るお馬鹿さんがいます。しかし、加害性をしっかりと明らかにすることは、そういう党派制なんて何も関係ないのです。この点は、強く訴えたいものです。ただただ、多くの人を不幸に導くアホな出来事を繰りかえさないよう学習するため、できるだけ被害性と等価で加害性を追求し、アホな出来事を相対化する必要がある、ということですね。
 なぜ『金曜日』に書いたのかというと、単純にこの企画を採用してくれたのが同誌だった、ということです。日本ではマイナーな国だと認識されているカンボジアのネタだということもあり、同国がらみの記事は、どこの雑誌もなかなか掲載してくれませんでした。
 このあと、ポト時代にナンバー2であったイエン・サリ元副首相のインタビュー記事を書いたのですが、『AERA』という雑誌で半年近く「順番待ち」をさせられ、結局は原稿と写真を引き上げて、『金曜日』で掲載したようなこともありました。
 では、みなさんのご批評をお待ちしております。

”加害者”側から見たポル・ポト政権――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち (上)――

<恐怖の相互監視システム>

 1975年4月から3年8カ月のあいだ、カンボジアを支配したポル・ポト政権下で、約150万人もの人びとが虐殺や飢え・病気などで死亡した。なぜ、ひとつの国家のひとつの民族のあいだで、一方が殺し、一方が殺されるという関係ができたのか。当時の統治システムの末端組織「サハコー」幹部の証言をもとに、虐殺の構造を二回にわたって報告する。

 これまでカンボジア大虐殺に関する報道や研究はいくつかなされているものの、その大部分は支配された側、もしくは虐殺された側の人びとの証言をもとにしたものだった。しかしながら筆者は、支配された側の証言を裏づけるための、支配した側の証言が得られない限り、その真相は明らかにならないと考えてきた。
 私は2000年5月から約3カ月間にわたって、NHKの番組制作のための調査でカンボジア国内を歩き回り、ポル・ポト時代に支配する側であった人びとを捜し出すことになった*1

■統治システム

 これから紹介する3人の元サハコー(生産共同体)幹部は、その調査のなかで知り合い、ポト時代の虐殺の実態を明らかにしたいという筆者の希望を、しっかりと受けとめてくれた人びとである。
 彼らの証言をもとに、支配する側から見たカンボジア大虐殺の仕組みを、サハコーという末端組織に注目しつつ報告する。
 本題に入る前に、ポト時代の地方統治システムについて簡単にふれておこう。ポト政権にはオンカーと呼ばれる実体不明の幹部組織が存在し、その下部組織として七つの管区(プムピァ)があった。管区はさらにいくつかの地区(ドンボーン)に、地区は郡(スロック)に、郡は村(クム)に、そして村は末端組織であるサハコーに分割された。このシステムの末端として、一般住民の管理をおこなっていたのがサハコーであり、一般的に被害者側の人びとが語るポト時代の証言の多くが、このサハコーでの暮らしに関するものであったといえる。
 一方、管区からサハコーにいたる統治システムと並行して、軍組織および住民監視システムとしての治安組織(中央はサンテバール、郡以下の行政単位ではサンテソックと呼ばれた)が機能していた。
 そして治安組織の末端として、サハコー内の要注意や危険人物を、さまざまな手段を利用して調査・報告・摘発していたのが密偵(チュロープ)である。
 今回は、当時、コンポン・トム州でサハコー長をつとめたPさん(65歳)の証言をとおして、おもに強制労働と相互監視システムの側面から、サハコーという組織の実態についてふれる(以下、本文中の証言はすべてPさん)。

クメール・ルージュ

 Pさんはコンポン・トム州B郡Y村F集落で生まれ、妻とふたりの子、そしてふたりの孫とともに稲作を生業にしながら、いまもそこで暮らしている。彼の集落にクメール・ルージュ*2が出入りしはじめたのは、1970年からであった。当時の集落には、警察や軍をはじめ、病院や校などの公共組織はまったくなかったが、住民はとくに困ることもなく、平凡に暮らすことができた。
 当初、クメール・ルージュの兵士たちは、住民へ何かを強制することなどなく、ときどき「『シアヌークの組織する解放戦線に支援を!』といって食糧の支援を求めてきた」程度であった。
 Pさんは72年に集落長になったが、このころからすこしずつ農業生産部門における集団化がはじまった。集団化といっても、農具や家畜を共同使用する程度のものであり、のちのポト時代におこなわれたような労働を強制されるようなことはなかった。74年になるとロン・ノル軍による攻勢が強まり、Pさんの家も戦闘で焼けてしまった。
 反ロン・ノル感情が高まるなかで、住民は食糧や宿泊施設といった側面で、クメール・ルージュへ積極的に協力するようになる。くわえて、郡の党組織の指令による地域の治安体制づくりもはじまる。村レベルでは治安組織(サンテソック)、集落レベルでは密偵組(クロム・チュロープ)がつくられた。
 治安組織の整備と並行して、組(クロム)の組織化が急激に強化されていった。
 集団化の単位は、青年から壮年までの男女で構成される移動部隊や老人だけを集めたもの、青少年だけを集めたもの、子どもだけを集めたものなどに分類され、これら集団はさらに男女に分けられた。この集団化の一単位を「組」と呼び、それぞれの組にはPさんの人選による組長が任命された。

■新人民と旧人

 75年4月17日にプノンペンクメール・ルージュによって陥落すると同時に、都市住民の地方への強制移動がはじまる。約200世帯のF集落にも、100世帯ほどの都市住民がやってきた。その多くはプノンペンから来た世帯であった。都市住民は新人民(プロチアチュン・トゥメイ)、早くからクメー・ルージュに協力していた地元住民は旧人民(プロチアチュン・チャ)と呼ばれた。
 新人民が集落に到着してから一週間程度が過ぎ、生活が落ち着いたころに、サハコー長の立ち会いのもとで、村の治安担当者による履歴調査がはじまった。
ロン・ノル軍の兵士や学校の校長、政治家であった人は敵である、と上部からいわれていた。正直にこれらの前歴を答えた人は、村の治安組織によって再教育を受けるために、どこかへ連れていかれた。再教育に連れていかれるということは、死ぬことを意味していた」とPさんはいう。
 旧人民に対する履歴調査は、71年からはじまっており、この時点では旧人民のなかに敵(クマン)はいないといわれていた。また「旧人民と新人民とでは権利が異なり、旧人民は新人民に対して思想教育をすべきであると村幹部からいわれていた」のであった。

■サハコーの構造

 F集落が「サハコーF」という呼び名に変わったのは、76年に入ってからである。集落長であったPさんは、村レベルの党組織からサハコー長に任命され、ポト時代が終わるまで務めた。
 サハコー長の仕事は、これまでやってきた集落長の仕事に、人員配置や徴兵、配給などの業務がくわわったものである。そしてこの時期に、食事の集団化がはじまった。ここで、ポト時代に入ってからのサハコーFにおける支配の構造を確認しておこう。
 最上部組織はオンカーと呼ばれていたが、末端組織であるサハコーとの直接的な関係はなかった。以下、管区・地区・郡・村・サハコーのそれぞれの党組織がタテにつながり、住民管理をおこなっていた。また、これらの組織とは別に、まったく同じタテの指揮命令系統で、住民への監視・指導・再教育などを実施する治安組織および軍組織がつくられた。
 つづいてサハコー内の管理体制についてふれる。まずサハコー長の下には、ふたりの副サハコー長(軍担当と経済担当)が配置された。さらに年齢や性別、作業内容などによって住民を組に分け、それぞれの組にサハコー長直属の組長が任命された。組長の下には副組長および構成員(サマチェッ)が配置され、それぞれの組の住民を管理した。
 このシステムの意味についてPさんはこう語る。
「上部をふくめたすべての組織で、トップがひとりと副がふたりという人員配置がつらぬかれていた。この体制は、トップが副を監視しながらも、副がトップを監視するという、上下関係を無視した相互監視体制ができていたことを意味する」
 サハコーFには、つねに軍が組織されているわけではなかった。戦闘が発生したり兵力が必要になると、随時、一般の住民が徴兵された。村から必要な兵士の数が指定され、サハコー長が人選をおこなう。徴兵の対象となるのは圧倒的に男性が多く、派遣された兵士が帰ってくることはすくなかった。よって、ポト時代に入ってからのサハコーFの人口に占める女性の割合は、高くなる一方であった。すべての住民は、老人・青年・少年・女性・密偵などの組のいずれかに所属して、稲作や畑作、水路づくり、そしてダム建設などの労働に従事した。
 いくつかあった組のうち、密偵組だけは特別な管理体制のもとにおかれていた。密偵組は、サハコー長の管理下であると同時に、村の治安組織とのホットラインをもっているのである。したがってサハコー長であっても「いつ自分の部下であるサハコーの密偵によって、自分のことが悪く村の治安組織へ報告されるか、たえず不安だった」という。

■強制労働の実態

 現在のF集落には、まったく水が流れていない大きな水路の跡がある。集落の北部にある川の水を貯めるための「1月1日ダム」から南部に向けて、数キロメートルにわたる水路をつくり、灌漑用水を確保することにより稲の収穫を増やすことが、ダム・水路建設当時の党の目的だった。ロン・ノル時代までは、一般的に農地1ヘクタールあたり1トン強程度だった籾(もみ)の収量を、ダム・水路をつくることで三倍に増やそうという無謀な計画だ。
 村の指示により、各サハコーには幅10メートル・長さ10メートル・深さ5メートル程度の水路の一部を、50人で掘ることが義務づけられ、サハコーFも労働者を選んで派遣した。人選はPさんがおこなったが、旧人民に楽な仕事をさせるように調整していたという。
 実際の作業は、水路掘りではなく、岩状の固い土をくだいて運ぶことであった。当時、すでにサハコーには男性があまりいなかったので、おもに女性が派遣された。1日2回の食事が与えられ、作業は朝から夜中まで続いた。病人が続出し、重病者は村の病院に運ばれるものの、「病院には医療器具も薬も何もないので、入院しても病気が治るわけではない。だが家で寝ていると、どんな重病であっても怠け者であると判断され、『教育』に連れていかれてしまう」のである。
 「教育」(アブロム)といっても、その真意は党の目標達成の障害にならぬよう幹部による指導をおこなうことであり、すなわち「再教育」を意味する。Pさんのような穏健なサハコー長が幹部である場合は、この教育の段階で作業に復帰でき、命を失う可能性は低い。一方、強硬派のサハコー長であれば、この段階で「怠け者は殺してしまっていた」という。

■監視される幹部

 密偵組がほかの組とは異なり、サハコー長のみならず村の治安組織にも直結していたことはすでに述べた。サハコーFの密偵組には、組長と副組長、構成員が各1名のほか、実際にスパイ活動をおこなう末端の職員が10人ほどいた。「若者は心が純粋で色がついていないから、使いやすい」という村幹部からの助言にしたがい、Pさんは17歳から20歳くらいの青年を密偵として起用した。
 密偵の大きな役割は、サハコー内にひそむ敵を見つけ出すことである。敵の定義は、党指導部の方針によって何度も変わった。76年まではロン・ノル政権の政治家や軍人、知識人などが敵であり、77年からはCIA(米中央情報局)やKGB(旧ソ連国家保安委員会)が敵の定義にくわわった。78年になると、かつては共にロン・ノル軍と戦った隣国ベトナムも敵になり、Pさんは村の幹部から何度も「内部の敵を見つけ出すことが大切だ」と指導された。
 各組に配置された密偵は、朝から晩まで住民の行動と発言を監視する。そして敵を見つけ出すと、サハコー長に報告するのである。報告を受けたサハコー長は、敵と見なされた住民に対して、これまでの履歴や考え方を反省するように「教育」する。この段階でサハコー長が、「コーサンが必要であると判断した場合、住民は村の刑務所へ送られて殺された」。コーサンとは「直す」という意味である。見つけた敵の対処については、サハコー長に決済の権限があったわけである。
 しかしながら、密偵が見つけた敵について報告する対象は、けっしてサハコー長だけではなかった。サハコーの密偵が、サハコー長へ報告せずに、村の治安組織へ敵のことを報告することもしばしばあった。
 こうして村の治安組織に認知された敵は、「ふたたびサハコーに戻ってくることはなかった」。密偵組長が「重要な敵」と見なした住民については、サハコー長が「教育」する間もなく、密偵から村へ直接、通報される仕組みだったのである。
 このようにサハコーの密偵と村の治安組織が直結していることは、Pさんらサハコーの幹部も密偵に監視されていることを意味する。ポト時代が終わりに近づくにつれ、サハコーの密偵と村幹部との関係が深まった結果、サハコー幹部は密偵による密告の不安に悩まされた。そしてPさんは、自分の部下である密偵の活動が管理不能になりつつあることに、戦慄を覚えながら日々の業務をこなしていった。

■虐殺装置サハコー

 Pさんの記憶によると、75年3月のサハコーFにおける旧人民の世帯数は200前後である。さらに4月から5月にかけて、100世帯前後の新人民が流入し、この時点でサハコーFの世帯数の総計は300前後となった。
 ところが、その4年後の79年1月の時点で、サハコーFには250世帯しか残っていなかった。では消失した50世帯は、どうなったのであろうか。
 Pさんによれば、「履歴に重大な問題があって、どうしてもかばいきれずに村へ引き渡したのが5世帯程度」で、「あとは水路づくりで過労死した人がたくさんいたし、病気になっても治療できないので、病死も多かった。密偵が直接、村へ引き渡した住民の数も多い」とのことである。さらに「同じ村のほかのサハコーでは、私のサハコーよりもたくさん人が死んでおり」、とりわけ「78年にサハコー長が南西部出身者に変わった同じ村の3つのサハコーでは、それぞれ数百人もの死者がでた」という。
 ようするに、刑務所送りや過労死・病死を虐殺の範疇に含め、1世帯を5人前後であると仮定した場合、サハコーFでは250人前後が虐殺されたことになる。
 私は、Pさんに虐殺の責任について聞いてみた。
 「自分はやれるだけのことはやった。私が命を救った世帯はすくなくない。履歴の問題から自分が村へ送り込んだ世帯については、申し訳なく思っている。また、住民に無理な水路掘りをやらせたことも、反省している。しかし、もっとも責任を追及されるべきなのは、郡レベルの幹部らであると私は思っている。私たちサハコー幹部への仕事の指示は、すべて郡幹部が村をとおしてやっていたものなのだから。当時は、とにかく人の命が軽い時代だった。村の幹部は口癖のように、こういった。『住民を生かしておいても得にならない。殺してしまっても損にならない』と」
 79年末、Pさんは約200人の元サハコー幹部らと共に、家族を残して森へ逃げた。ベトナム軍が彼らに対して「教育」をおこなうという情報を得たからである。食糧のない森で、仲間がつぎつぎに病死や餓死するなか、6カ月後には「こんな状態が続くなら、どんな目にあっても生きているほうがましだ」と考え、F集落へ戻る。帰って来てみてから、ベトナム軍が彼らを「教育」するということは、純粋にポト時代の間違った考え方を変えるための再教育であったことを知る。逃げた先で死んだ仲間の数は150人にのぼる。
 穏健派のサハコー長であったPさんは、ポト時代が終わった直後からはじまった地元住民による元サハコー幹部への差別を乗り超え、いまは稲作を生業としつつ、戦乱で破壊された寺の再建活動の中心人物として活躍している。  (以下、次回)

*1:1999年10月22日放送のNHKスペシャル『ポルポトの悪夢』

*2:シアヌーク政権下、ポル・ポトほかフランス留学を経験した共産主義活動家たちによってつくられた組織の呼称。