「加害者の証言」の意味 その2

 昨日の記事のつづきです。これは『週刊金曜日』(309号、2001年3月31日)に掲載されたものです。こうした出来事が、わずか30年前に起きていたことは、覚えておいていいと思います。
 ポト時代が終わった79年からしばらくのあいだ、いくつかの派閥に分かれて戦っていたカンボジア人ですが、いまは被害者も加害者も、同じ国内に暮らしています。同じ民族が同じ国のなかで殺し合ってから30年しか経過していないのに、殺し合った人びとが同じ国で暮らしている。そうした現状は、「なぜ人は殺し合うのか」という問いだけでなく、「殺し合ってから、どうするのか」という問いも、カンボジア社会が投げかけてくれるという意味で、きわめて重要です。

”加害者”側から見たポル・ポト政権
――証言しはじめた末端組織「サハコー」の幹部たち 下――

<暗黒政権を支えた虐殺装置>

 ポル・ポト政権時代、いわばその最前線で人民を監視・虐殺した当時の統治システムの末端組織「サハコー」の役割について、その長の証言をもとに前回報告した。今回は、数万人の虐殺に間接的に関与した副サハコー長、そして人民の監視活動をしていた密偵長の証言をもとに、ポト時代に人民を支配した「排除の構造」を検証する。

 「ここでは、1975年5月に都市住民がきたときから虐殺がはじまった。はじめは1日に数十人から100人くらいが労働に出かけるといって森へ連れていかれて、そのまま帰ってこなかった。78年に東部の新人民がやってきてからは、1日に200人から300人が殺されるようになった」
 遠くを見つめながら、Kさんはそう語った。

■ポト時代前夜

 カンボジア北西部のバタンバン州は、強制移住の終着点として、多くの新人民が送り込まれた地域のひとつである。地平線が見えるような規模の水田が広がるこの地は、古くからカンボジアにおける米の一大生産基地であった。
 チャム族のKさん(49歳)はコンポン・チュナン州出身で、51年に両親と9人の兄弟、そして50世帯のチャムの仲間と共に、農地を求めてバタンバン州M郡T村Y集落へやってきた*1
 農家の子どもが学校へ通うことなどほとんどなかった時代に、Kさんは小学校3年まで学校に通って勉強した。そのおかげで、字が読めるということが評価されて、69年からY集落の集落長に抜擢される。この時点でのY集落の世帯数は80である。
 72年になると、ベトナム兵の集落への出入りがはじまった。つづいてクメール・ルージュがやってきて、全世帯がY集落の西側にある森林地帯のS村D集落へ強制的に移住させられた。D集落の周辺は深い森であったため、移住した人びとの多くは開墾に駆り出された。マラリアが蔓延する地域であるとはいえ、食事もしっかりとれたし、休息時間も確保できていたので、この時点では住民が死ぬことなど滅多になかった。
 集落の代表として、クメール・ルージュとの連絡・調整を担当していたKさんは、「このころは世帯ごとに家を持てたし、食事も世帯単位であった。自分でつくった農作物は、自分で食べることができた。チャム族への迫害もなかった」という。
 しかし74年になると、村の指示により、チャム族世帯に限り、いくつかのグループに分割され、グループごとに別の集落への移住を強要された。その結果、D集落には約20世帯のチャム族世帯しか残らなかった。悲劇のはじまりである。

■強制移動と強制労働

 事態が急変したのは、75年の4月中旬からであった。まず、周辺のいくつかの集落を統合して、サハコーRが作られた。チャム族だからという理由で、ほかの集落長が横すべりでサハコー長となるなか、Kさんは幹部にはなれなかった。サハコーができると、組が組織された。以前から機能していた軍や密偵は、この時期から絶大な権力を握ることになる。そして強制労働がはじまった。
 プノンペンから強制移動させられてきた新人民が、数万人単位でサハコーRへ流入した結果、旧人民のおもな役割は、一般の労働から新人民の管理・教育へと変わっていった。とはいえ、Kさん世帯はチャム族なので、旧人民であるにもかかわらず新人民なみの生活水準を強いられた。
 新人民やKさんらチャム族の人びとは、おもに広大な森林地帯の開墾と、「4月17日水路」の建設に従事した。人口3000人弱のサハコーRへ数万人もの住民が流入したことにより、食糧や医薬品は慢性的に不足していた。強制労働で過労死する人や病死する人が激増するとともに、食糧不足で餓死する人もかなりいた。
 Kさんは73年に結婚し、4人の子どもと暮らしていたが、「76年に入ると、食べ物が確保できなかったため、3カ月のあいだに妻と子ども全員が飢えて死んでしまった」

■副サハコー長の仕事

 77年末になると、東部スバイ・リエン州からの新人民がサハコーへ大量に送り込まれてきた。ほぼ同時期に南西部から幹部がやってきて、「仕事ができない者はいらない」といいながら前サハコー長や副サハコー長、そしてその親族を皆殺しにしてしまった。
 文盲であった南西部の幹部は、文字が書けるという理由で、Kさんを経済担当の副サハコー長に任命した。同幹部はKさんがチャム族であることを知らなかったのである。
 副サハコー長のもっとも重要な仕事は、郡の経済担当が管理している物資(塩・砂糖・衣服など)とサハコーで生産した農作物を、定期的に交換することであった。物資は郡から配給されるのではない。郡とサハコーとの物々交換によって得られた物資が、住民に配給されるのである。よってサハコー内で生産された農作物の多くは郡へ流れ、すくない余剰を住民に配給するのが常であった。
 「当時は食糧がたりなくて、配給したくてもできないような状態だった。食糧不足の解決方法としてサハコー長は『必要のない人間は始末してしまおう』といっていた」と、Pさんはいう。
 Pさんのもうひとつの大切な仕事は、稲の作柄や水路工事の進行状況、餓死や病死者の人数、そして郡の治安組織へ連行された住民の数などを、サハコー長へ文書で毎日報告することである。さらに、字が書けないサハコー長から上部へ送る文書の代筆を頼まれたりもした。

■新人民の大量虐殺

 77年から副サハコー長として日々の報告書を作成していたKさんへ、サハコーRの人口推移について聞いてみた。
 「75年4月のサハコーの人口は、約3500人。その後、プノンペンからの新人民が数万人ほどくわわったが、私が副サハコー長になる直前の77年なかばには2800人程度になっていた」
 つまり、プノンペンから来た新人民のほとんどは、餓死・病死・虐殺などで死んだのである。Kさんは、さらに続ける。
 「78年になると、ふたたびスバイ・リエンからの新人民数万人がサハコーへやってきた。にもかかわらず、78年末のサハコーの人口は2000人程度となっていた」
 たった一年間で数万単位の人間を殺すことができるのであろうか。冒頭で紹介したKさんの証言からいえば、それが事実であると考えざるをえない。
 ポト時代が終わった直後、多くのサハコー幹部や密偵らが、住民によって彼の目の前で虐殺された。
 「私は虐殺には直接、関与しなかったので命は助かった」というKさんは、いまも後妻と共にR集落のはずれでひっそりと暮らしている。

■虐殺装置の心臓部

 カンボジア南西部のタケオ州T郡は、最強硬派として昨年までポト派を指揮してきたタ・モック氏の故郷である。同郡は、住民管理や農業生産などの面で、党の方針に忠実であったことから、ポト時代にはモデル地域に指定されていた。ようするに、ポル・ポトの理想とする地域社会の姿が、そこにあったのである。
 同郡G村N集落にクメール・ルージュが入ってきたのは、70年のことであった。その直後にベトナム軍もやってきた。当時、集落長を務めていたCさん(71歳)は、72年になると村の治安組織から集落の密偵長に任命された。おもな仕事は、小銃を持って12人の部下と共に、集落の周辺の警備をすることだった。
 Cさんが、村からの「15歳から20歳の若者を密偵に採用せよ」という指令により、部下の人数を増やしたのは74年であった。人選は、村の治安組織とサハコー長、そしてCさんとでおこなった。若者18人が新たに部下となって、彼は初めて気がついたという。
 「子どもは使いやすい」
 この地域では74年から集落をサハコーと呼ぶようになり、同時に労働と食事の集団化がはじまった。さらに治安組織が強化され、その一環として各サハコーの密偵が増員されたのである。
 密偵の仕事内容もこの年を境にして大きく変わり、これまでの「集落の警備」から、「サハコー内の住民の監視」という内容になった。言い換えれば、外にいる敵を監視して集落の住民を守る役目が、内に敵がいないかどうかを監視して組織内の秩序を守る役目になったのである。
 密偵長は、形式的にはサハコー長の管轄下にあるのだが、実際はサハコーの上部にある村の治安組織に直結していた。Cさんは村の幹部から、「サハコーの幹部もしっかりと見張るように」といわれたことを覚えている。
 密偵という仕事について、ここで確認しておこう。Cさんによれば、第一に住民がしっかりと働いているかどうかを見張ること。第二にサハコー内部に敵がいるかどうかを探ること。そして、第三に怠け者や敵を見つけたならば、サハコー長か村の治安組織に通報すること、などであった。
 具体的には、サハコー内の各組に数名ずつ、密偵が派遣される。こうして昼間に徹底した労働の監視をおこない、夜になるとサハコー内を見まわり、住民の会話を盗み聞きする。
 「住人に気づかれないようにして家屋の床下に入ることなど、いま考えてみると常軌を逸した行為をしていた。しかし当時は当たり前のことだと思って指示をだしていた」

■敵の「定義」

 前号でも触れたが、密偵長にとって誰を敵とするかという「定義」は、年を追うこどに変わっていった。
 75年、クメール・ルージュプノンペンを制圧したあとに、Cさんのサハコーの近くで、ロン・ノル軍の兵士500人が一度に殺された。ポト時代になった直後は、ロン・ノル政権に関わった人物が敵であると上部からいわれていた。その後、敵の定義はCIA(米中央情報局)やKGB(旧ソ連国家保安委員会)、そしてベトナムへと変わっていく。
 以上は政治的な意味での敵の定義である。時間が経つにつれて、政治的な敵の定義が拡大解釈されるようになり、最終的には密偵が気に入らない人物がいたら、誰でも敵として上部に密告できるような状態になっていたという。
 「食事がたりない、といった。農具を壊した。仮病をつかった。鶏を盗んだ。ポト時代末期になると、上部に密告する理由は何でもよかった」
 住民虐殺へ直接関与したかどうかをCさんに聞くと、次のような答えが返ってきた。
 「私が虐殺に直接関与しているかどうかは、いえない。基本的にサハコーの密偵は、武器を所持していなかった。しかし、密偵に捕まった住民がどうなっていったのかは、把握していた」
 問題のある住民を密偵が見つけると、まず密偵長に報告する。密偵長がその対象人物を「とくに重要でない人物」であると判断した場合、そのままサハコー長に連絡する。この場合、密告した人物の対処は、サハコー長が決める。密偵長が「重要な人物」であると判断した場合は、サハコー長をとおさずに村へ報告する。いずれの場合も、村へ身柄を引きわたされることは、その人物が死ぬことを意味していた。
 「密告された人物は、サハコー長が教育するか、クレアン・タチャン刑務所(タケオ州T郡)もしくは109事務所と呼ばれる郡の治安組織の事務所へ連行した。それらの人びとは、ふたたびサハコーへ帰ってくることはなかった。部下の報告にもとづいて、私が上部に密告した人の数など、多すぎてわからない。密告すれば、ほとんど殺されることがわかっていたので、はじめのころは躊躇した。しかし、だんだん慣れてきてしまった」
 しばらくすると、虐殺の現場に立ち会ったことならあるといいながら、Cさんは虐殺現場の様子を話してくれた。
 「まず虐殺対象者らを縄で後ろ手に縛り、数珠繋ぎにして森のなかへ連れていく。現場に着くと縄をほどき、穴を掘らせる。掘り終わると、彼らを穴の手前でひざまずかせ、治安部隊の隊員が背後にまわって彼らの頭を腕に抱える。そして、つぎつぎにナイフで喉の動脈を切っていく。彼らは自分が掘った穴のなかに倒れ込み、絶命するのである。彼らへの斬殺が終わると、何かの間違いで生き残ることを防止するため、穴のなかへ小銃を乱射することもあった」
 「はじめのうちは、殺したあとに穴を埋めていたが、ポト時代末期になると穴を掘ることなどせず、殺したままの死体を放っておくようになった。何よりも印象に残っているのは、虐殺現場の匂いである。斬殺された人びとの首から流れ出た大量の血の匂いは、いまでもはっきりと覚えている」
 逃げようとした人は、いなかったのであろうか。
 「手を縛られ、数珠つなぎになって歩かされるので逃げられない。たとえ逃げられたとしても、隣のサハコーで絶対に捕まる。各サハコーの住民管理はかなり厳密であり、朝逃げれば夕方殺される、と人びとはささやいていた」

■排除の構造

 「貧しい人びとに権力を」というスローガンを聞いて、Cさんはロン・ノル時代にクメール・ルージュへ協力しようと考えた。ところが、ポト時代に入ると「たしかに貧しい人びとが権力を持ったように見えたが、実際は上部からの指示によって、末端の住民同士で殺し合いをしていただけであった」と当時を振り返る。
 79年に故郷を追われたCさんは、北西部の各州を渡り歩いた末、いまはバタンバン州の山寺で、ポト時代の自分のおこないを反省しながら、人目を避けて修行生活を送っている。
 取材を終え、私との別れ際にCさんはこういった。
 「ひとり目を殺せれば、あとは人の死が無意味に感じられてくる。だから何人でも殺せるようになる。問題は、社会がそういう雰囲気になってしまったことだ。誰が指示したかということは、いまとなってはあまり問題ではない。なぜならば当時、私たち密偵のなかで、ポル・ポトの名前を知っている者などいなかったのだから」
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 3人のサハコー幹部の証言を聞き終えたあと、私にはひとつの疑問が生まれた。それは、「この人たちは、加害者といえるのであろうか」ということである。
 この問いは、ポト時代に支配する側であった人びとを免罪するつもりで発しているのではない。絶えず敵をつくらないと、自分が敵になるという構造。平等化を唱えつつ、小さな差違が生じると処分されてしまう状況。言い換えれば、絶えずスケープゴートをつくり出し、それを排除しておかないと、みずからが排除されてしまうような社会、それがポト時代なのである。そういう時代のなかで、みずから進んで排除される側になろうと思う者など、果たしているであろうか。

取材協力/藤下超(NHK報道局国際部記者)・井上恭介(NHK報道局番組部ディレクター)

*1:敬虔なイスラム教徒であり、少数民族であるチャム族は、宗教を否定したポト政権により、徹底的に迫害された。一方でポト派は、カンボジア北東部の少数民族の一部を「純粋で忠実な部下」として利用した。こうしたポト派の少数民族への対応(一方では迫害し、一方では利用する)は、極めて重要な事実であるが、本稿の目的はサハコーの実態を解明することなので、ここでは深くふれない。