ひこうき雲

lelele2006-02-13


空がきれいでした。

昨日、東京都江東区の漫画喫茶で、ある女性が新生児を捨てたそうです。赤ちゃんは女児で、身長約38cm、体重1000g。店員が発見し、病院に運ばれたが死亡。女性は、いったいどんな気分で、赤ちゃんを捨てたんでしょうね。
きれいな空に、ひこうき雲。亡くなった赤ちゃんの思いは、ひこうき雲といっしょに、空高く飛んでいったのかなあ。そうだといいんだけど。

カンボジアでは、ポル・ポト時代が終わってから私が滞在しはじめた90年代初頭まで、農村では嬰児殺しがおこなわれていました。口減らしっていうやつですね。
農村の女性に子どもの話を聴くと、たとえば「ほんとうは6人だけどいまは4人」などという答えがかえってくる。ふたりはどうしたのか聞くと、病死だと答える。「ほんとうは4人だけど、いまは3人」で、ひとりは病死で亡くなったという。で、話を聞いた女性の子どもについて、別の家の人に聞くと、殺したとはいわないけれど、「死んだ」とか「処分した」と教えてくれる。
仲よくなっていくと、はじめは病死といっていたのに、みずから「子どもを殺した」という女性もいました。くわえて、集落の女性らは、どこの女性が子どもを何人殺したのかを、おたがいに知っていたりするわけです。女性らの認識は、「それは仕方のないこと」で共通していました。

いまいる家族だけ食うのもギリギリ。避妊の技術も用具もなし。それでも性欲はある。そして、子どもが産まれる……。そういう状況になったら、自分はどうするのかなあ、と考えました。いまより貧困になることを覚悟し、米の収穫がすくなかったら家族の誰かが餓える可能性があることも覚悟し、生まれた子どもを育てていくか。さらなる貧困のリスクを回避するために、生まれたばかりの子どもを殺してしまうのか。

もちろん、何があろうと殺しちゃマズいとは思います。そうは思いますが、私が彼らに「殺さないほうが、いいと思う」などといっても、状況は変わりません。私がちいさいときに「命たいせつに」を標語にしていた先生がいました。その先生が彼らに「命たいせつに」といって、いったい何の意味があるのでしょうか。彼らの困窮を継続的に救えるんだったら、そういうことをいってもいいかもしれない。そうじゃないんだったら、「命たいせつに」なんて、無責任で言いっぱなしの戯れ言にしか聞こえません。
すでに生きる家族の命をたいせつにするためには、新しい命を犠牲にせざるをえない。新しい命をたいせつにするためには、すでに生きる家族の命を犠牲にせざるをえない。頭ごなしに「子どもを産むな」なんていえる状況でもない。この状況を、どう考えたらいいんだ……。結局、よくわかりませんでした。

92年くらいから、アジア最貧国であったカンボジアの経済状況もすこしずつ底上げされ、嬰児殺しはあまり聞かなくなりました。とはいえ、生活に困窮して嬰児を殺してしまった女性の声は、いまだによく覚えています。

これは80年代カンボジアの話。現代日本で嬰児殺しはマズいと思います。どこかに相談すれば、なんとか育てていけるだろうし。月並みだけど、困ったことがあったら、誰かに相談してほしいなあ。哲学とかなら、ひとりで考え抜くことにも意味はあるのだろうけど、日常生活の困難をひとりで考えても、あまりいいことはありませんよね。