「猫殺し作家の屁理屈」(きっこのブログ 8/21)について


そういえば、「きっこのブログ」が坂東眞砂子さんの子猫殺しについてとりあげています。

→ http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.html

同ブログに転載された板東さんの文章を読んだときに、私はすこし抵抗を感じました。とはいえ、板東さんを糾弾するきっこさんの書いたもののほうが、より気持ち悪く感じられました。

どこが気持ち悪いのか。もっとも気持ち悪かったのは、猫の話を人間の話に直結させてしまうところ。猫の件に関しては、板東さんが子猫を殺す理由を述べているので、それに対していくら反論してもかまいません。しかし、猫の話を人間にあてはめて考える場合は、ある程度の注意が必要でしょう。


アジアやアフリカの極貧地域では、ごく最近まで、いやいまも「間引き」がおこなわれているという実態を知る努力をしたり、日本における「間引き」の歴史を民俗学的な資料で参照してほしいものです。
なんで親は「間引き」する(した)のでしょうか。親は「間引き」したくてしているのでしょうか。避妊具が買えなかったり手に入らなかったりする極貧地域の性生活は、どうなっているのでしょうか。

うまれたばかりの子どもを親が殺すなんて、あってはならないことだと思います。しかし、過去から現在にいたるまで、日本でも海外でも「間引き」の事例が見られるということは、苦渋の選択の結果として、親が子どもを殺さざるを得ない理由があったからでしょう。その理由を考えることをせずに、またその理由を断ち切って親が子どもを殺さないようなアクションを起こしているわけでもないのに、なぜきっこさんはあのような大風呂敷を広げられるのか。

そういうことをすこしも考えずに、どこでもだれでも避妊ができるという前提で議論をすすめるきっこさんの文章は、ただただ自分の思い描く正義を基準にしたうえで、大きな道徳を振りかざしているように感じられ、気持ち悪くなった次第です。


ちなみに、板東さんの文章を何度も読み返した私は、板東さんがきっこさんのいうような「猟奇殺戮変質女」だとは思えませんでした。そして、あの板東さんの文章は、生死に関するタブーについて、あまりにも正直に書いたため、軽い気持ちで読んだ読者には反発をくらうだろうな、と思いました。
この件、思うところがたくさんあるので、時間があるときにつづきを書ければと考えています。


<関連ページ>
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