創造するためのギャップ・イヤー


昨日、NHKの「視点・論点」に茂木健一郎さんが出演しました。同番組の内容は、さまざまな問題について専門家が語る、というもの。時事問題がテーマになることが多い10分程度の番組です。


茂木さんがテーマに選んだのは、ギャップ・イヤー。
ギャップ・イヤーの意味は、三省堂の『デイリー新語辞典』によると、以下のとおりです。

ギャップイヤー【gap year】

〔ギャップは隙間(すきま)などの意〕
大学への入学が決まっている学生が,社会的な見聞を広めるために一定期間(通常 1 年程度),入学を遅らせること。また,その期間。イギリスで 1990 年代から普及した制度で,利用する学生はこの間を旅行やボランティア,職業体験などで過ごす。

このような制度がイギリスで普及していること自体、私は知りませんでした。
すばらしい制度だと思います。私自身、働きながらもギャップ・イヤーのような日々を送ることが多く、そうした日々があらたな企画を生み出しているといっても過言ではありません。


脳科学の見知からいうと、脳は休ませようとしても休むものではなく、つねに働こうとするのだそうです。ですから、いままでとまったく違うことをやったり、まったり休んでいるときにも、脳はたえず働いているということですね。で、これまでやっていたことを、ぱったりやめたりする。それでも脳は働こうとする。そうした瞬間に創造がおとずれるということを、ダーウィンなどの例を引いて、茂木さんは説明していました。


とはいえ茂木さんは、日本のような「どこかの組織」に属していないと人から認められないような社会では、ギャップ・イヤーのような制度は定着しにくいかもしれない、と危惧していました。キャリアに空白が生まれると、それまでの経験や実績が無駄になったり、職場で干されたりするという状況は、たしかに日本ではありがちなことだと思います。


茂木さんは、このギャップ・イヤーを学生時代のみが利用する制度にするのではなく、社会人になってからも利用できるようなものにするのがいい、といってました。さらに、印象的だったのは、フリーターとかニートとかいわれている人たちの状況も、視点を変えればギャップ・イヤーのようなものなのではないか、というようなことを指摘していたことです。この指摘は、ただただ「フリーターはだめだ」「ニートはどうしようもない」と一元的な指摘しかできない論者が多いなかで、とても新鮮に感じました。


ずるずると何年もフリーターやニートを続けている場合は、ギャップ・イヤーの本意が適用できないかもしれません。だって、そうなってくると、フリーターやニートを「やらない時期」こそが、ギャップ・イヤーになるではありませんか。
しかしながら、学生から社会人になる端境期に、それほど長い期間でなくフリーターやニートをやる場合は、フリーターやニートの時期もギャップ・イヤーだといえるのかもしれません。この場合、「期間」の長さが問題になろうかとは思いますが。


いずれにせよ、社会人になってからギャップ・イヤーを実践するとなると、その期間の食い扶持を保証してくれるようなシステムが必要になります。それを実践することにより、多くの人が創造的(クリエイティブ)になり、社会全体に利益をもたらすのであれば、それこそ国や地方自治体などがそのシステムをサポートするのがいいかもしれません。そうなると、どの程度の創造が社会の利益になるのかという、これまた判断がむずかしい問題が浮かびあがります。


現状の日本では、社会人のギャップ・イヤーというのは、夢物語なのかもしれません。しかし、知らなければ夢にも見ないわけですから、やはり茂木さんの提言は重要かつ刺激的なものだと私は思いました。