ひさびさの編集日誌(内藤編)& いじめ自殺問題


すごく長いモラトリアム(おっさんが使う言葉じゃないか!?)を経て、ようやく内藤朝雄さんの本をつくる準備に取りかかりました。なんか、とても忙しくて、疲れちゃったんですよね、『バックラッシュ!』のあと……。


内藤さんの本は、いくつかの対談とさまざまな媒体に掲載された評論、そして書き下ろしで構成します。本日、造本デザインを発注し、印刷屋さんにスケジュールを確認しました。順調にいけば、1月中旬の発売となります。


内容については、いつか改めて書きます。
それにしても、これだけいじめが世間で騒がれているのに、いじめ研究の第一人者である内藤さんを呼ばないメディアの無知ぶりには、あきれ果てています。知ってて呼ばないのなら、なおさらタチが悪い。これまで、丸激だけですから、内藤さんを呼んだメディアは。


ところで、朝からワイドショーを見ていると、各局でコメンテーターや出演者のおっさんやおばさんが「ぜったいに死なないで」という主旨の言葉を、これが正しい答えだといわんばかりに力強く語っています。開いた口がふさがりません。その言葉は、いかにも「普段はどうでもいいけれど、いま自分はいじめについて考えています」と、語り手が自身を免罪するために吐いているように聞こえます。でも、いじめについてちゃんと考えているのなら、「ぜったいに死なないで」などという正義感ぶった言葉が、いじめられている側を追いつめてしまうことに気づくでしょう。いじめられる側は、その言葉を「テレビのおっさんやおばさんは、僕から死という選択肢まで奪ってしまうのか……」と考えるかもしれないわけですから。


それと、「10年ほど経ってみたら、いまいじめられていることなんて、ほんの些細なことだと思えるから」という主旨のコメントも、最近のワイドショーの定番になりつつあるようです。これなんて、超ウルトラ無責任な言葉であり、いじめられる側の子どもたちに「おとなは僕たちの状態や気持ちがぜんぜんわかっていないんだ」という失望感&絶望感を与えてしまうだけだと思います。そういう正義づらした悪魔の言葉がテレビで大々的に放送されることによって、死のうかどうか迷っている、つまり死のボーダーラインに立つ子どもが、「結局、おとなは僕らのことなんて、わかっちゃくれないんだな。だめだこりゃ……」と絶望し、突発的に死を選ぶ可能性だってあるでしょう。


先日、フジテレビでビートたけし爆笑問題が教育を考えるという番組を放映していて、それに久米宏が出ていました。久米はみずからの経験にもとづき、「いじめや自殺を報道するのはとてもむずかしい」という主旨のことを力説し、テレビでいじめ自殺を報道すると、すくなからず同様の自殺を誘発してしまう可能性があることを語っていました。事件を報道することはジャーナリズムの責務だが、その報道が巻き起こすであろう誘発現象を考えると、いくら悩んでも解決策が見つからない、と久米は正直にいっていました。


この久米の悩みは、たいへん真っ当なものだと思います。それにくらべて、ワイドショーのコメンテーターや出演者の「ぜったいに死なないで」やら「何年か経てば忘れることだから、いまは我慢しろ」といった超無責任コメントは、それが正義だと勝手に信じている点で、悩みなく吐き出されている言葉です。その言葉によって、いじめられる側の子どもが追いつめられたり、おとなに救いを見いだせなくなったり、突発的に絶望して死に向かわざるをえなくなっているのだとしたら、テレビが(そしてコメンテーターやら出演者やらが)いじめ自殺を誘発する原因になっているということも考えられるわけです。


子どものいじめや自殺について取材をつづけている渋井哲也さんもロブ大月さんも、いじめられる側の子どもに対して「死なないで」なんて言いません。ふたりとも「逃げろ!」といっています。いまいる場所から、学校から、人間関係から、ただちに逃げよう。とりあえず逃げてから、あとのことを考えればいいじゃん。
これが、いじめられる側の子どもに対して、いま、おとながかけられる唯一の声だと私も思うんですよね。