蘇我入鹿は革新で中大兄皇子は保守?

lelele2007-02-02



日頃、日本古代史について考える機会のない私ですが、さきほど放送されたNHKスペシャル「飛鳥発掘が覆す大化改新」という番組は興味深かったです。今朝の読売新聞朝刊の「蘇我氏邸 要塞化」という記事によると、奈良県明日香村の甘糟丘東麓遺跡で7世紀前半の大規模な石垣と塀のあとが見つかったと報道されたばかり。スペシャル番組にしてはあまりにもタイムリーなので、驚きました。


読売の記事では、発見された石垣や塀は、「蘇我氏が強大な権力を背景に、軍備の増強を進めて」おり、「天皇家を牽制か」などと煽っています。さらに社会面での解説では、「丘の上には望楼を築いて、天皇家の動向を見張っていた」だの「天皇家の維新を守ろうとした中大兄皇子は、(要塞化した)甘糟丘を見上げては焦燥感に駆られ、打倒蘇我氏を決意したのだろう」という「識者」のコメントとがあります。


一方、NHKの同番組では、発掘が進む甘糟丘には、(けっして豪勢ではない)小規模な建物が並び、おそらく武器庫などとして使われていた可能性があることを指摘。さらに、地政学的な配置から甘糟丘の蘇我家天皇家を守っていたのではないかという仮説を展開。その根拠として、蘇我入鹿が東アジア各国との交流と理解を深めようとしていた可能性を示唆します。とどめの一発は、「日本書紀」の大化改新に関する記述が20カ所以上も改編・編集されており、その部分については記述内容の信憑性が低いという古代中国語学者の解説。


番組では、以上の点を踏まえたうえで、蘇我入鹿は東アジアとの協調路線を進めよう考えていた革新派で、中大兄皇子藤原鎌足こそが革新を妨害する保守派だったのではないか、という歴史学者の説を引用。そうだとすれば、蘇我入鹿が殺害された年はけっして大化改新ではなく、中大兄皇子天皇に即位したあとに唐との戦闘に敗れ、その教訓から都の守りを堅くするための大量動員を目的に実施した律令制の時期が「改新」なのではないか、と結論づけていたような気がします。


おもしろいですね。取材対象は同じ発掘現場なのに、読売は伝統を重んじた規定の歴史認識を強調する編集をしており、NHKはその真逆をいくような番組を放送しました。
いずれにしても、NHK説(!?)の信憑性が高まってくると、またまた教科書を書き換えなければならなくなってしまいますね。


どちらの説に軍配があがるのか。
これまでの「蘇我入鹿は悪者」説がひっくりかえって、「中大兄皇子藤原鎌足が悪者」説になってしまうのか。
楽しみながら動向を見守りたいものです。