ほんとうの和食とは何か 3 ――寿司ポリスを嗤う――


新刊の配本日が変更になったり、原稿を消してしまったりで、ながいあいだ和食の話が中断してしまいました。すみません。
くわえて、上記の混乱のなかで、ニューズウィークの当該号をなくしてしまいました。それを参照しながら、寿司ポリスたる松岡農水相を嗤う予定だったのですが……。
というわけで、うる覚えで恐縮ですが、ニューズウィークの内容を思い出しつつ、寿司ポリス問題の感想を書いてみようと思います。


海外で「ほんとうの和食」でない和食を食べて、松岡さんは寿司ポリス制度を思いついたんですよね。でも、「ほんとうの和食」の定義って、いったい何なのでしょう。私にはわかりません。
カンボジアで和食の店ができたときには、たしかに飛びつくようにかよったりしました。そこで食べたのは、カレーライスやコロッケ定食でしたが、それが「ほんとうの和食」であるのかどうかなんて、関係なかったですね。
ただただ、懐かしい感じがしました。そうなると、日本人が「懐かしさ」を感じるのが「ほんとうの和食」なのか、という問題が生じます。「懐かしさ」=「ほんとう」って、ちょっとヘンだと思います。


ニューズウィークの記事のなかで、日本人が和食の基本だと思っているものや形式は、じつは朝鮮半島から流入したものだ、と書かれていたように思います。これはけっこう象徴的な話だと思いました。
たとえば、「外国人」がカンボジア料理といっているものがあります。一応は、それらしいものがあるものの、タイとベトナムの食堂でご飯を食べれば、「タイ料理+ベトナム料理÷2=カンボジア料理」であることが、なんとなくわかります。
さらに中華料理をくわえて3で割ってもかまいません。タイ国境に近づけば、限りなくタイ料理に近いカンボジア料理が食堂で出されるし、ベトナム国境も同様です。首都プノンペンには華僑がたくさんいるので、限りなく中華料理に近いカンボジア料理が出てきたりもします。


こうしたことから体感的にいえるのは、人が移動すれば料理も移動するということですね。料理が国をまたいで移動しているうちに、混じってしまったりすることもあるでしょう。料理の決め手ともいえる食材や調味料が現地調達できなければ、代用品で対応するしかなくなりますし。
そんなふうに考えてみると、そこに住む人たちが、そこの食材や調味料を使い、そこで食べているのが、「●●料理」と呼ばれたりするものであり、その「●●」にわざわざ国名を入れたうえで、ぎゃーぎゃー騒ぐ必然性はまったくないような気もします。


さらに、これだけ人の流動化が国を渡って盛んになっているんですから、料理だって流動化するのは当然のことだと思います。流動化して、混じり合い、新しいものが生まれたり、古いものがなくなったり……。
海外で「和食」を食べたらまずかった。もし多くの人がまずいと思ったら、その店には客が遠のき、つぶれてしまうでしょう。海外の日本料理店が、松岡さんが「ほんとうの和食」だと思えない商品を「和食」といって売っていても、それがおいしければその店は繁盛するだけのお話し。


以上のことから導き出されるのは、「ほんとうの和食」を世界に認知させるために、日本の政府が旗を振って和食の認定制度をつくるなんて、笑止千万なことだということですね。そんなことを日本が言いだした結果、「それじゃあ、俺の国もその制度をつくろう!」なんて他国がマネをしだしたら、日本の多くの飲食店にその制度のつけがまわってきかねません。
日本で多国籍料理やエスニック料理を売り物にしている店なんて、つぶれるところがけっこう出てくるんじゃないのかな。そうなったら、松岡さんはつぶれた責任をとってくれるのかなあ。


「ほんとうの和食」ってものがあってもいいと思います。でもそれは、「ほんとうの和食」を求めている人が勝手にそういう定義をつくり、勝手にその定義を守っていけばいいこと。その定義を知らない人や定義を流動的に解釈している人に対して、押しつけるようなものではないと私は思うんですよね。


さらにいえば、その「ほんとうの和食」って定義は、他国に日本を紹介するときには都合よく使ってもよいものだといいですね。カンボジア人に「日本料理って何?」と聞かれたときには、「ほんとうの和食」の定義を話したり(笑)。それでいて、海外の日本料理店でヘンな「和食」が出てきたら、ムキになって怒るのではなく、笑って写真撮影をしたり。そんな感じでどうですかね、松岡さん。