江原啓之 vs ニューズウィーク記者

lelele2007-05-11



ポストから取り出した「ニューズウィーク日本版」2007年5月16日号の表紙を見てびっくりしました。「スピリチュアルと日本人」というタイトルの下に、江原さんの大きな写真(右の写真参照)。
同紙46ページからはじまる特集の第一記事が「ようこそ、江原ワールドへ」。そして、「勝ち組と負け組の二極化が進む日本で、スピリチュアルな世界に救いを求める人々が増えている」というリードが続きます。


記事の内容ですが、「入口のハードルを巧みに下げることで、江原流のスピリチュアリズムは急速に広まった」とか「日本のスピリチュアリズムの特徴は、常識的なアドバイスと超自然的な話をミックスさせている点」というもっともな指摘をしたうえで、「江原ファンに共通する特徴は『だまされやすさ』ではない。現代社会を生き抜く道を見つけたいという真摯な望みだ」「スピリチュアリズムに対する免疫力不足は、日本ならではの特徴のようだ」と現状を分析します。


記者のスタンスは基本的に、江原さんと彼をめぐるメディアの動向、信奉者の思い、アンチ宗教学者のコメントなどをなぞることにより、日本におけるスピリチュアリズムの現状を「批判的」に検証するというものです。そのスタンス自体は大歓迎なのです。とはいえ、「勝ち組と負け組」とか「これほど多くの日本人が飢えた魂をかかえていることだ」といった言葉のなかに、紋切り型な考え方が入り込んでいることと、そういったことを江原現象をもって決めつけるのはどうかと思ったりしました。たしかにそういう傾向はあるのかもしれませんが、現実はもっと多様でしょうし、江原さんに批判的な人だって、山ほど存在するでしょう。


第一記事のことはさておき、圧巻は第二記事のインタビューでした。実際は記者が、もっとていねいな質問の仕方をしているのだと思うのですが、誌面上では、かなり高圧的な質問の仕方で江原さんに話を聞いています。笑えますので、ぜひ読んでみてください。これを読んだら、内容のいかんにかかわらず、江原さんがかわいそうだと思ってしまう人がたくさんいるのでは。江原さんの言動に超懐疑的な私でさえ、すこしそう思いましたから。



しかしまあ、江原さんは批判されるのがわかっているのに、よくこのインタビューを受けたなあと思います。特集の第一記事も第二記事も、けっきょくは江原批判に終始しているわけですから。もはや「ニューズウィーク」ごときに叩かれても、みずからのポジションはゆるがないということなのでしょうか。江原さんに関しては、メディアがこぞって「プロジェクトX」みたいなノリで、「儲けるときに儲けよう」とスクラムを組んでいるので、そうなるのも致し方ないのかもしれませんね。


宮台真司さんと鏡リュウジさんの対談本では、スピリチュアリズムも大きな論点となっています。江原さんがどうというよりも、日本のスピリチュアリズム全般について、その問題点を検証するようなかたちです。ただいま製作中で、年内に出せればと思っています。


ところで、スピリチュアリズムやら精神世界やらの言葉に対して、私自身はまったく共鳴できないんですよね。麻原尊師の本も読んだし、細木数子さんや江原さんの本も読んだけど、ぜんぜん心に響いてこない。


しかしながら、それらを読んで、深く共鳴する人がいても、それはそれでいいと思っています。というか、それは否定できません。それこそ憲法にあるとおり、表現の自由や信教の自由があるわけですから。どんな胡散臭い宗教や考え方であろうと、それを「ない」ことにしたり、「なくそう」とするのはマズいと思います。それをやってしまうと、かならず自分に跳ね返ってくると思いますし。だって、自分が「正しい」と思っていることなんて、けっきょくは比較的多くの人が「正しい」と思っていることであったり、単に「正しい」と思い込んでいることなのであって、その根拠はあいまいかつ脆弱です。森達也さんがつくるオウム関連の映像を見ていると、そういうことをつくづく感じます。


問題は、そうした胡散臭い宗教や考え方などが、犯罪や暴力とリンクした場合には、毅然とした態度で挑むこと。そして、犯罪や暴力とリンクしそうな場合には、事情がわかっている人が信仰者や信奉者にしっかりとアドバイスをすること。さらにいえば、信仰しようと思っている本人や信奉しようと思っている本人が、胡散臭い宗教や考え方などが犯罪や暴力とリンクしそうかどうかを嗅ぎ分ける臭覚を持つということ。拙ブログではおなじみのリテラシーを、何かを信じようとする個々人が身につけるということですね。宗教リテラシーでもいいし、精神世界リテラシーでもいい。


そんなヌルいことをいっているうちに、「うちの子が●●教に……」とか「うちの子がカルト集団に……」、なんて声が聞こえてきそうです。身内の方が胡散臭いカルトなどに入り、かなり深刻な事態に直面している方もいることでしょう。そのカルトの現状が、犯罪的かつ暴力的なのであれば、徹底的に糾弾されるべきですし、私も糾弾をできる範囲で手伝います。それでも、私が今後もヌルいスタンスをとり続ける可能性があるのは、憲法表現の自由と信教の自由が保障されているからです。それらの自由を享受するということは、胡散臭い宗教や考え方などが次々とあらわれるようなヌルい社会で、個々人がさまざまな情報を比較検討し、リテラシーを持ちながら生きるということなんだと思うんですよね。