仇討ちOK?

lelele2007-05-16



週刊金曜日」2007年5月11日号に、藤井誠二さんと森達也さんの興味深い対談が掲載されていました。犯罪被害者とは何か、また死刑とは何かを考えるうえで、参照すべき点が多いものとなっています。


藤井さんのスタンスは、『殺された側の論理』(講談社)を読めば一目瞭然で、死刑も含めた量刑の「厳罰」化が必要というものです。もちろん、ただただ「厳罰」を要求するのではなく、犯罪被害者への取材をおこなった結果として、現在の量刑が軽すぎるという結論に達したわけです。
一方、森さんのスタンスは、量刑が軽すぎるのは認めるし、家族を殺した加害者を死刑にしたいと思う被害者家族の心情はわかるものの、それでも「厳罰」化は慎重におこなうべきであり、早急に進めることには反対というものです。


世間も法律に携わる人びとも、とくに人権派と呼ばれる人たちは加害者側しか見てこなかったのは、藤井さんのいうとおりです。人権を看板にしておきながら、加害者と被害者の双方に対するケアを怠り、加害者側ばかりに注目していた不自然さは是正されてしかるべきでしょう。
また、藤井さんがいうように、被害者家族の声が世間に届くことにより、「明日はもしかしたら被害者になるかも、という当たり前のことに自覚的にな」るのも、よいことだと思います。しかし、「被害者だけではなく、明日はもしかしたら加害者に、という発想も必要」という森さんの意見も見逃すことができません。


被害者家族の刑事司法への参加と裁判員制度について、藤井さんは推進すべきだと言い、森さんは「情緒導入」になると危惧しています。死刑問題を考える際に、この情緒をどう扱うかが大きな問題になっているんですね。江戸時代には、被害者の怨念といった情緒的な部分が、「仇討ち」という慣習によってある程度は処理されていました。ちなみに、「仇討ち」を辞書で引いてみると、以下のように書かれています。

仇討ち(あだ-うち)

1 主君・親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすこと。江戸時代、武士階級で慣習として公認されていたが、明治6年(1873)禁止された。かたきうち。

2 仕返しをすること。「けんかに負けた弟の―をする」

大辞泉より)

明治6年に禁止されたとのことですから、ごく最近まで「仇討ち」という慣習は残っていたんですね。あらためて驚きました。ごく最近まで、加害者を殺すことによって、被害者家族の情緒的な怨念を晴らすということがおこなわれていたわけです。それくらい被害者家族の怨念は深く、為政者もその怨念を晴らすことを認めざるを得ないような状況であったのかもしれません。


つまり、死刑の理論的根拠が、被害者家族の死刑を求める気持ちであるのだとすれば、死刑とは法で定められた「仇討ち」の制度であるという側面もあろうかと思います。とはいえ、「仇討ち」が禁止されたのは、司法に情緒を入れないことにより、「疑わしきは罰せず」という近代司法の原則を確立するためだったのだともいえます。たしかに情緒的なものが作用して、多くのえん罪が生み出されてしまっては、何のための司法だかわからなくなりますね。だが、そういってえん罪の部分を強調しすぎると、犯罪被害者の情緒的な思いが落としどころを失ってしまう。


ん〜、どうしたらいいんだろう。むずかしい。
また明日、続きを考えてみますね。

<以下、明日につづく>