スプーンを曲げてみる


だいぶ前ですが、スプーンのある部分とある部分をつまみ、ある方向に力を入れると、簡単に曲がる、とテレビでやっていました。和田アキ子が出演していた番組かな。で、そのとおりにやってみたら、ほんとうに、一瞬のうちに、ほとんど力を入れなくても、簡単にスプーンは曲がりました。

スプーンといえば……。七〇年代から八〇年代にかけて、超能力者がスプーンを曲げる映像がテレビの各局で流され、超能力ブームが巻き起こりました。そのときに活躍した超能力者の「いま」を追いかけ、ドキュメンタリーとして放映し(1998年)、書籍として刊行した(2001年)のが森達也さんです。

その書籍は『職業欄はエスパー』(角川文庫)。読んでみましたが、とてもいい本でした。超能力ブームだった当時の状況と、超能力に対するメディアの変貌がよくわかります。3人の超能力者の日常がたんたんと記されます。ドキュメンタリーとはいったい何なのかが理解できます。でも、肝心の「超能力というものがあるのかないのか」という点については、この本を読んでもわかりません。

森さんは、超能力や超常現象の存在に対して、終始あいまいな態度で接しています。超能力をあつかった本なのだから、超能力があるのかないのか、はっきり書かれていると思ったら、それはまちがいです。「あるのかないのか」という二項対立の答えを求めることよりも、たいせつなことがあるのではないか。この本で森さんは、そういう問題提起をしているように思えました。

森さんのそういうスタンスは、オウム真理教に対する態度でも一貫しているように感じます。同書のあとがきで、森さんはこう記します。

小さいものや弱いものや薄いものを見つめることが大切なのだ。目を凝らせばきっと出口は見えてくる。他者の営みを思う心をとりもどすだけでよい。
『職業としてのエスパー』角川文庫、394ページ

これだけ読むと、サヨクが語りたがる弱者擁護の言説のように思えるかもしれません。しかし、この森さん言葉の核心は、ウヨクやサヨクといった思想や単純な二項対立を超えたところにある。そう思えて仕方がありません。

思想上の立ち位置を明確にする「ふり」をするのは簡単でしょう。とはいえ、「ふり」ではないかたちで、自分の思想上の立ち位置を明確にすることが、いかにむずかしいことなのかを、次回のエントリーで考えてみます。

あいまいなものや不可解なもの、そして腹が立つものがあったら、それを理由に切り捨ててしまうのではなく、まずは「よく見てみる」ことが重要なのではないか。切り捨てるのは、「よく見て」からでも遅くはないんじゃないか。森さんは、私にそう問いかけてくるんですよね。

職業欄はエスパー (角川文庫)

職業欄はエスパー (角川文庫)