会社の話 2

 なぜ編集者になったのかといえば、1989年までさかのぼって話す必要がある。
 横浜市職員をやりながら六角橋のK大学二部に通っていた私は、卒業したらやりたいことをやろうと思っていた。当時、同大の経済学部にはマル経の先生方が多く、ブントの元委員長であった冨岡さんがいたり、短大にはあの網野さんがいたりした。在日の尹さんに教育学を教わったり、朝鮮史の梶村さんのゼミに入るなど、夜間大学にしては充実した環境で勉強をしていた。
 ある日、「中国でもいきたいなあ」と漠然と考えていた私は、偶然、元朝日記者の本多勝一さんの『中国の旅』という本を読んだ。そして、知らなかったことがたくさん書いてある彼の本を、目から鱗が落ちる思いで読みあさった。とにかく、文章がわかりやすいので、つぎつぎと読んでしまう。それで、何となく「ジャーナリストって、やりがいがありそうな仕事だなあ」と思ったりした。ちなみに、本多さんの評価については、朝日を辞めたあたりから、その言説に幻滅することが多くなり、いまとなってはまったく読まなくなってしまったが……。
 夜間大学を卒業すると同時に公務員をスパッと辞めて、K会という新左翼系の出版社に入った。それが1989年のことであった。同社は当時、5人でやっていて、完全分業しているわけではなかった。だから営業をやりながら編集を手伝ったりする機会も多く、出版社の仕事をトータルで学ぶのには最適だと考えて入社した。私自身はまったく思想性がなく、ただただジャーナリズムに関わってみたいと考えていた。この無思想性もしくは無党派性は、いまでもまったく変わっていないし、今後もあえて無思想・無党派でいようと思っている。
 さて、教育問題を中心に、社会、政治、女性、図書館など、幅広いジャンルの本を出していた同社で働き、つくづく感じたことは、中小の出版社は「社長の思想で刊行物の善し悪しが決まる」ということであった。当たり前のことなのかもしれないが、もっと社長以外の編集者が独自に企画を出しているのかと思っていたので、すこし拍子抜けしたのを覚えている。もちろん会社によって、状況は違うのかもしれないのだが。
 当時はまだ、思想のことなどよくわからなかったので、新左翼と左翼があり、新右翼と右翼があることを知り、日本の思想もいろいろあるんだなあ、とけっこうワクワクした。また、同社は国労支援の本をたくさん出しており、国労の集会にいって本を売ったり、組合員とともに「団結、ガンバロー」などと叫んだりするなど、なかなかエキサイティングな日々を送っていた。統一教会と闘っていた有田芳生さんの本を出したり、オウム真理教と闘っていた江川紹子さんの本を出すなど、社長の故・Hさんの問題意識と鋭いアンテナに、大いなる影響を受けることにもなった。最近、飲む機会が多くなった藤井誠二さんの本を最初に刊行したのも同社であった。考えてみれば藤井さんとの付き合いは、断続的ではあるものの、15年くらいになるんだなあ。
 同社に入って半年が経過したとき、ベトナムカンボジアを旅行した。いずれも当時は社会主義の国だったので、現在でいえば北朝鮮にいくような形態(つまり観光ではなく、友好使節として訪問する)で訪ねる旅であった。両国を渡航先に選んだのは、いうまでもなく本多さんの影響であった。『戦場の村』のベトナムが、いまどうなっているのか。『カンボジア大虐殺』のカンボジアが、いまどうなっているのか。それを、この眼で見たかったのである。旅の案内人が、戦場カメラマンの石川文洋さんであったことも、参加の動機になった。二週間程度の旅であったが、私は大きなカルチャーショックを受けて帰国した。
 帰国してからも出版社で働いていた。心のなかでは「きっちりと修行をして、将来は自分の出したい本を編集できるようになるんだ」などとマジで考えていた。ところが、入社して1年が経過したころ、上記の旅行を手配した旅行会社の社長から、「カンボジアにいきませんが」と突然いわれた。旅行でカンボジア人の素朴さに触れて感動する一方、なぜあの国で1975年というごく最近に、大量虐殺が起きたのが不思議でしょうがなかった。それで、帰国してからは在日カンボジア人と交流を深めつつ、日本で手に入る文献を読みあさったりもしていた。そういうタイミングでカンボジア行きを勧められたのだった。
 出版はつづけたいし、カンボジアにも行きたい。かなり究極の選択であったが、私は結局、カンボジアに行くことにした。理由は、日本で出版を志すことは帰国してからもできるが、社会主義から資本主義へと変貌をとげる激動期の国に滞在し、長期でフィールドワークができるような機会は、おそらく一生に一度しかないだろうと思ったからだ。
 このつづきは次回に。