本日の思想塾

 昨日は、隔週開催の宮台思想塾だった。
 前回に引き続き内田隆三著『国土論』を読む。時間ギリギリにやってきた宮台さんは、「いま土井たか子と会ってたんだよ」といっていた。憲法のお話しをしてきたとのこと。

 レジュメ発表の前に鈴木謙介さんの『カーニヴァル化する社会』が話題になり、ご本人がいる前で、宮台さんの短評が聞けたのが面白かった。宮台さんは、鈴木さんや北田さんが著書で、社会の諸問題を分析しながら、それがいいのか悪いのかという評価をしないことに対し、「ディプレッシブ(強迫的)なコンニャク野郎」と評していた。(この件については、鈴木謙介さんのblogに詳細が書かれています。ぜひご参照を)
 私は、「ディプレッシブなコンニャク野郎」的であってもかまわないと思う。というか、そういう空気が人文系の「言説空間」に流れており、おふたりはその空気を察してものを書いているのだと思う。ちょっと断定的にものをいったり、問題の対処を提案したりすると、重箱の隅をつつくような罵詈雑言がネットに出回ったりするのだから、そのへんのリスクをヘッジしながらものを書くのは、仕方のないことだとも思う。

 思想のグランドデザインを語ると、すぐに専門知を振りかざした細かいツッコミが入り、その細かい部分が駄目だからグランドデザインも駄目だという話になる。宮台さんや仲正さん、そして姜さんのように、思想のグランドデザインを語れて、なおかつ知識と経験に裏打ちされた「勇気」のある発言ができる研究者や書き手は、いまやほんとうに限られている。
 一方で、鈴木さんや北田さんは、まだ30代前半だということを考えると、これから知識を積み重ね、経験を積んでいけば、きっと「コンニャク野郎」ではなくなるのだと思うし、なくなると信じてもいる。すくなくとも北田さんについては、「コンニャク野郎」を「あえて」やっている節があり、そのへんの実情が知りたいと思って、宮台さんとの対談『限界の思考』を仕込んだのであった。北田さんには、ある種の強い「意志」が感じられ、その「意志」はけっしてコンニャク的ではない、と私は勝手に確信している。

 こう書きつつも、鈴木さんや北田さんに「コンニャク野郎が時代のトレンドなんだ」という問題設定で、宮台さんと徹底抗戦してもらうのも面白いと思っている。そこに大塚英志さんや東浩紀さんが参戦したら、さらに面白くなりそうな予感。夢のバトルロワイヤルですなあ。
 とにかく、いま人文系の出版人がやらなければならない仕事は、「コンニャク野郎」がいいか悪いかという評価などではなく、「党派制」をぶちこわしたうえでの自由で活発な議論をうながすことなのだと思う。そして、若手ながら、そういう議論の場に顔を出す鈴木さんや北田さんの姿勢に、私は敬意を表したい。

 ここで思想塾の話に戻る。今回は、民俗学の巨頭である柳田國男折口信夫坂口安吾三島由紀夫らの言説をおもに分析しながら、敗戦前後の歴史を振り返るという内容だった。
 著者の内田さんは、ベンヤミンの『パサージュ』を多分に意識されてこの本を書いたのであろう。この記述スタイルは、しばしば小熊英二さんの『民主と愛国』と比較されるが、『民主と愛国』のほうが圧倒的に読者に対して親切だと思う。『国土論』とは、どんな読者を想定して書かれたものなのだろうか、と思想塾のたびに思ったりする。テキストとして取りあげるだけあって、内容は面白いのだが……。

 民俗学といえば、私がカンボジアの農村調査をしたときに、もっとも繰り返し読んだのが宮本常一の著作であった。柳田や折口の理論的民俗学とは距離をおいて書かれた宮本の著作は、経済学を専攻していた私にも、宝の山のようだった。とりわけフィールドワークの実践について、多くのものを学んだ。とりあえずいろいろな本を読んでみる、ということをつづけていると、ときどきこういう有意義な出会いがある。
 「アジア人は同じ」とか「アジアはひとつ」などとは、口が裂けてもいえない。そんな情況があり得ないことは、アジアで長期滞在すればわかる。だが、宮本の実践がカンボジアの農村調査で役立つということからは、日本とアジア諸国をむすぶ「アジア的」な共通項のようなものを感じずにはいられなかった。
 話は飛ぶが、じつは宮台さんの「亜細亜主義」議論については、もうすこしアジアの側の応答を確認しつつ、議論を展開していただきたいなあ、と僭越ながら私は考えている。忙しくて時間がとれないかもしれないが、宮台さんが東アジアや東南アジアを旅して、アジアの人びとの息吹にふれたとき、宮台「亜細亜主義」はさらなる進化をとげるのではないか、などと日々夢想しているのでした。