武田徹さんの日記から、報道の裏と表を考える


 ブログをやりはじめてから、武田さんの「オンライン日記」を読むようになりました。それ以前は、「週刊SPA!」でときどき見かけた記事を読むくらいでした。
 同日記を読めば読むほど、同世代のジャーナリストで、これだけバランスのとれた「正論」が書ける人がいることを、嬉しく思ったりします。もちろん、バランスのとれた「正論」というのは、私の価値観を元にいっていることです。ようするに、武田さんの思考には、共有できる部分が多い、ということですね。
 以下、武田さんの文章を引用します。この部分は、私がこのブログで編集者の姿勢を問い質した部分と重なると思います。


『ぼくがブランドの確立した大手メディアの著名ジャーナリストが書いたジャーナリズム論に時々鼻白む思いをするのは、ジャーナリズムを支えるインフラのコストに対する問題意識がなくて、それこそ正義を謳ってもそれが机上の空論化しているからである。たとえば人件費についても、あらゆる経験が遊びも含めてジャーナリズムに生きる可能性があるので、相対的に多くのサラリーを得ている大手メディア記者についてあしざまにいうつもりはなく、むしろ恵まれた機会をうらやましく思うが、そのサラリーを未来の自分のジャーナリズムのために再投資する財源として意識している人は多くないし、実際に使えていないのではないか。どうしても浪費が止められずに、人間の俗っぽさを思い知るのであればそれはそれで良い経験になると思うが、そんな自覚もなしにセレブを気取り、一方ではジャーナリズムは社会の木鐸だなどと謳うジャーナリズム論を書くから鼻白むのだ』(武田徹「オンライン日記」2005年6月7日)


 すこし脱線しましょう。私は、カンボジアで暮らしながら、かなり多くのジャーナリストと接することができました。大手新聞社やテレビ局の特派員や中堅ニュース社の特派員、フリージャーナリスト、フリーカメラマン、テレビ番組や雑誌・書籍のプロダクションなどなど……。
 カンボジアが激動期であったこともあり、いろいろなジャーナリストが取材に来ました。それこそレベルや技術、活動資金などもふくめ、ピンからキリまで。そういう人たちと出会ってきたことは、日本のジャーナリズムの実態を理解するうえで、とても役に立っています。
 日本のジャーナリストがもっとも多くカンボジアに来たのは、自衛隊PKOで派遣されたときでした。まあ、日本がらみということで、大手からフリーまで、有象無象が押しかけてきました。あとは、ポルポト派が政府軍に攻勢をかけたときや、首都プノンペンで大規模なデモが発生したとき、それに政府軍と野党軍が戦闘を開始して内戦の一歩手前になったときくらいでしょうか。
 日本人ジャーナリストによる海外での報道取材なんて、結局は日本の視聴者や読者が求めている(または、求めていると予想される)ものを対象にするのであって、それ以上のものではありません。彼らがいないときに、多くのたいせつな事柄が起きているのに、そんなことはすっ飛ばして、いいとこ取りをするのが海外報道だといえます。
 大手マスコミの海外支局(とくに東南アジア圏などの少数言語が使われる地域)で、支局長を名乗る特派員の方のどれだけが、現地の言葉をマスターしているのでしょうか。ほとんどしていないでしょう(英・独・仏・露・中などの言語は、日本でも習得する機会が多いので、別の話です)。つまり、通訳や現地人の助手を介して、現地とのコミュニケーションをとっています。会話はもちろんのこと、現地の報道も通訳に英訳してもらってから読んだりします。
 そうなると、特派員が取材しているというよりも、通訳や助手が取材しているというケースがかなり多くなる。大手については、とても優秀な人材を雇っているのは確かだが、問題はその優秀な人材が取材したとおりのことを、どこまで特派員の日本人に伝えているのか、ということです。
 私はカンボジアで、そういった優秀な人材が、「この程度、伝えとけばいいだろう」と考え、舌を出して笑いながら通訳をしたり、取材結果を報告している機会に、何度も出くわしました。現地の言葉がわかるので、支局にいたり、一緒に取材をしたりすると、わかりたくなくても私にはわかってしまうのです。
 もし、その特派員が、日本語や英語で読めるデータをしっかりと読み込み、現地に長く暮らす日本人の話をよく聞き、日常的な出来事にも細かく関心をもち、これがもっとも重要ですが現地語を多少でもマスターしていたら、通訳や助手の態度もだいぶ変わってきます。ようするに、ナメられなくなります。
 しかし、そういう特派員は、ごく少数であるのが実情でした。「ほんとうは別の国にいきたかったのに」とふてくされる記者や大使館周辺のセレブとばかり付き合い、ホテルのプールの常連となっているような記者が大多数。だから、通訳や助手にナメられている人がほとんどなのです。
 現地の実情がこんな調子ですから、私は原則的に、日本の新聞における海外報道は、マユツバものだと思って読んでいます。テレビについては、自分が直接関わった作品に関しては、自信をもって薦められますが、それ以外はやはりマユツバです。間違えないでほしいのは、日本のマスコミにおける海外報道を、全否定するのではなく、あくまでもマユツバ的な評価をするということです。それは、まともな取材を経て発表された記事や番組も、少数ですが、ないわけではないからです。

 問題は、やはりメディア・リテラシーにいきついてしまいますね。以上のような海外報道の裏事情を知ったうえで、新聞の外報欄を読むのと、何も知らずにベタな感覚で読むのとでは、受けとり方に雲泥の差が生じます。裏事情を知るためには、内部告発が必要です。でも、日本には社会の利益になるような内部告発であっても、それを支持するような風潮は、残念ながらできていません。「なぜあいつは、世話になっている会社(組織、共同体)を裏切るのか……」ということになる。
 そういう日本独自の風潮は、いまや存続させる価値はなく、変えていく必要があると、私は強く考えています。阿部謹也さんの世間論なども、その風潮を変える必要があるという前提で書かれていますね。

 ちなみに、裏も表もしっかりと読者に伝えつつ、みずからの論点を提示しているのが宮台真司さんです。じつは、宮台さんの議論のなかには、私の持論と相容れない部分が少なからずあります。亜細亜主義しかり、改憲議論しかり。とはいえ、裏表なしという姿勢は尊敬に値するものであり、まさにメディア・リテラシーをみずからの存在をもって実践しているようにも思えます。そういう宮台さんの姿勢に影響されて、私はこのブログを書いているのかもしれません。
 議論の明快さや思考の深さもさることながら、裏も表も知らせるから、宮台さんは読者にうけており、信用されているのではないか、と私は思っています。面白いことに、表ばかりを強調する「良識」に満ちた学者ほど、宮台さんのことを黙殺したり毛嫌いしているという事実は、おそらく否定できないことだと思います。ひがんでいるのかもしれませんね。裏表なしという、自分にはできないことを、宮台さんがやっているので。
 別に、すべての学者に対して、宮台さんのごとく裏表なしで勝負しろといっているわけではありません。しかしながら、表の小難しい部分だけを表出させていても、これからの読者はついてこないのではないか、とは思っています。『挑発する知』で姜さんと宮台さんが共有できた部分に、ミドルマンもしくは有機的知識人というものがありました。学者の役割のひとつは、専門知と一般人のあいだに立って、知識の橋渡しをするものだ、という議論です。ミドルマンの役割を担うためには、やはり裏表なしで勝負する必要があります。読者に信用され、支持されなければ、そんな役割を担えるわけがありませんから。
 多くの学者がそのことを知っているし、やろうと思えばできるのに、やっていないのだと私は思っています。なぜやらないのか、というと、ふたたび「阿部謹也さんの世間論」が……、ということになってしまうわけで……。
 象牙の塔なんて、ぶち壊してしまえばいいとは思うのですが、大学院生を8年もやるうちに、塔の構造の複雑怪奇さを深く知るようになり、「一筋縄ではいきませんなあ」と考えるにいたりました。
 だがしかし、どうにかしたいではありませんか。微力ながら、私は本を出すことにより、どうにかする方向へ水路を掘りすすむしかありません。