宮台思想塾――お題は、松本健一著『竹内好「日本のアジア主義」精読』――


 宮台さんは冒頭で、ウォーターゲート事件のときにワシントン・ポストの記者に内部告発をしたFBI副長官の話しをしました。もう新聞で大きく取りあげられたので、ご存知の方も多いかと思います。ディープスロートことマーク・フェルトのことです。かなりくわしい記事が、『ニューズ・ウィーク日本版』2005年6月5日号に、「大統領の陰謀 33年目の真実」として掲載されていますので、興味のある方は読んでみてください。
 同事件の概要を説明した宮台さんは、以下のことを事件の背景として指摘しました。第一に、FBIは絶えず権力者のスキャンダルに関する情報を調査・収集し、ファイリングしている。長期にわたりFBI長官のイスに座りつづけたフーバーは、そのファイルを歴代大統領にチラつかせることにより、地位を確保してきた。第二に、フェルトの内部告発は、本来は自分が昇格すべきFBI長官の地位を、ニクソンにより妨害されたというルサンチマンがある。フーバーが病死したあと、ニクソンはみずからの子飼いの人物を同長官にした。このルサンチマンが、内部告発への契機となった。この視点からは、同事件は政権内部の権力闘争だといえる。第三に、政権の権力闘争であるにもかかわらず、特定の大新聞が事件をスクープするということは、もちろん盗聴という大統領の犯罪を暴くという社会正義の意味もあるが、大新聞が政権内の特定の権力に加担することでもある。
 同事件をスクープしたワシントン・ポストの記者は、当時のアメリカン・ヒーローになりました。しかし、フェルトの告白により、そのヒーローが、一方では政権の権力闘争の道具として機能していたことがあきらかになりました。まあ、フェルトは「頭がはっきりしているときと、そうでないときがある」ような状態であり、家族がカネを目当てにフェルトの告白を「絞り出した」ことも、参考程度には知っておくほうがよいかもしれません。
 以上の点を指摘したうえで、宮台さんは、田中角栄ロッキード事件を取りあげました。この事件も、似たような構造なのではないか、といいます。この事件には確実に、アメリカによる「角栄おろし」の力が作用しており、その力を後ろ盾にして、立花隆さんや『文藝春秋』がキャンペーンを張った。そして角栄は首相の地位を追われた。アメリカが角栄をおろしたがるおもな理由は、中国との国交を日本がアメリカよりも先にむすんでしまったことなのではないか……。
 さらに宮台さんは、こう問いかけます。日本の国益角栄のスキャンダルを秤にかけた場合、どちらが重いのか。実際に日本の国益を考えて行動していた総理大臣を、アメリカの画策する「角栄おろし」のスキャンダルでつぶしてしまうことが、国民にとっての利益(すなわち国益)にかなったことだといえるのであろうか。(ちなみに宮台さんは、どちらが重いのかについて、明言はしていません。お間違いなきように)
 これは、またまたメディア・リテラシーの問題ですね。進行している表層的な物事の裏で、いったい何が動いているのか。以上のふたつの事例は、いずれも事件が発生して、しばらくたってから、何かが裏で動いていたことがわかってきました。ポイントは、事件が起きているときには、「ニクソンをおろすことが正義だ」とか「角栄をおろすことが正義だ」とマスコミが報じ、私たちもそれを疑いなく信じていたという点です。
 以上の事例から学ぶぺきことは、政治にまつわる事件が起きたときには、まずは報道を疑ってかかれ、ということでしょう。マスコミは一方を正義だといっているが、その正義の裏には権力闘争の影が見え隠れしているのではないか。その影を報じないのは、そのマスコミが一方の権力に協力しているからなのではないか。マスコミのいう正義をベタに信用せず、報道していないことは何なのかを想像してみる。そして、報道されていることに、みずからが想像する報道されていないことを付けたしたうえで、事件を自分なりに再検討してみる。私たちは、そういうクセをつけるようにすべきではないか。
 そういったことを、宮台さんはいっていたように思います。
 さらに最近、警察や検察がやたらと政権内で力をもっていることを、宮台さんは指摘します。三井環事件に見られるように、かなりの無理をしてでも内部告発をつぶそうとするし、実際につぶす力を持っている。それはなぜか。力の源泉は、権力者の秘密ファイルにあるのではないか。権力者のスキャンダルを調査・収集した秘密ファイルがあるからこそ、警察・検察の不祥事は表沙汰にならないし、なっても簡単に処置されて、なかったことになってしまう。なんだ、アメリカの権力闘争と同じじゃないか。

 それで、こうした権力闘争の話は、本義や本質と実態が乖離するという意味で、明治以降の日本の政治思想状況にも、あいつうじるものがある、ということで、本題である竹内好の「アジア主義」の検討がはじまりました。

 ようやく脚注の執筆が終わり、衰弱した身体にワインを流し込みながらこの文章を書いているので、睡魔が襲ってまいりました。
 つづきは次回に。