亜細亜主義を議論する前提

 さて、ウォーターゲート事件の話題の次に、今回のお題であるアジア主義の検討に入りました。
 松本健一さんの本の前半は、竹内好が『現代日本思想大系 第九巻』(筑摩書房)で書いた解説「日本のアジア主義」をそのまま掲載しています。まずは、この前半部分のレジュメ発表と質疑応答がはじまりました。
 こういったゼミ形式の勉強会に出席するのは、修士の単位を取るために半年だけ日本に滞在したとき(一九九五年)以来のことです。すでに4回ほど出席していますが、われながら「よくつづいているなあ」と思ったりします。

 今回、宮台さんに問い質したいことが、私にはありました。それは、「亜細亜主義」という言葉についてです。とりわけ漢字で「亜細亜」と表記することについて、宮台さんの考えを聞こうと思いました。この問題を語るときの語り口については、慎重にならざるをえない部分があります。書き誤ると、とんでもないことになりえます。よって、ある程度、私のスタンスを明示したうえで、議論をすすめることにします。

 私が「亜細亜」という言葉に出会ったのは、夜間大学にかよっているときでした。いまから15年くらい前ですね。すでにブログで触れたかもしれませんが、私は梶村秀樹さん(故人)という朝鮮史のエキスパートが指導教官のゼミに参加していました。アジアの歴史を見つめ直すようなゼミです。梶村さん自身は、あきらかに左派的なスタンスで社会に対して発言をつづけていました。しかし、ゼミの内容はまったく党派性が感じられないようなものでした。
 ゼミでは、おもにアジアの歴史について議論し合うわけですから、必然的に明治以降の日本とアジアとの関係性が話題になります。そんななかで、日本はアジア諸国に「侵略」をつづけ、アジアの人びとをたくさん殺したという歴史を知ることになります。なさけないことに、私は25歳をすぎるまで、日本によるアジア「侵略」の歴史をほとんど知りませんでした。
 以上のような文脈のなかで、「亜細亜主義」や「大東亜共栄圏」などといったものについて、すこしずつ知ることになりました。で、大学を出た時点では、「亜細亜主義」というものは日本によるアジア「侵略」につながる、とんでもない考え方だ、と思っていました。つまり、「亜細亜主義=侵略」という図式が、頭のなかに埋め込まれたわけです。

 とはいえ、カンボジアに長期滞在したことにより、まず「侵略」とは何なのかを再考せざるをえなくなります。
 はしょって書きますが、第二次大戦中のカンボジアは、インドシナの一部としてフランスの植民地となっていました。そして日本は敗戦の直前に、仏印進駐と称してインドシナを一瞬、植民地化します。以下、個別具体的に検証していたらキリがないので、あくまでも私のつたない知識と見聞にもとづき、かなり抽象化したうえで歴史を記述します。
 日本軍は当然、カンボジアを「侵略」したのですが、当時を生きたカンボジア人に話を聞くと、「日本はフランスの植民地化から解放してくれた」などとベタに語る人がかなり多い。敗戦間際で、殺人や強姦などをやっているゆとりがなかった、という実情もあるわけですが……。ここで注目すべきは、「侵略」という日本側の大義と、侵略されたカンボジア側の「フランスからの解放」という大義を実践した結果が、乖離していたということです。
 第二次大戦が終わると、カンボジアはふたたびフランスの統治下におかれます。そしてシアヌークの政治工作により、1950年代なかばになって、ようやく独立することができました。ところが1970年になると、ベトナム戦争の敗戦色が濃くなったアメリカは、ベトナムからの退路の確保に動きます。どうやってベトナムから撤退するか、を考え出したのです。
 カンボジアは、アメリカがベトナムから撤退するための捨て石になりました。世論をベトナムからそらすために、共産ゲリラから守ってあげるという名目で、アメリカは1970年にロンノル政権という傀儡政権を樹立して、事実上カンボジアを「侵略」しました。さらに、共産ゲリラ撲滅という名目で、カンボジアベトナム国境付近に、空爆で「ベトナム戦争で余りそうな弾薬」を落としまくりました。
 時期によって変動はあるものの、人口の7割前後が農民であるカンボジアでは、もともと資本主義だろうが共産主義だろうが、自分たちが幸せに暮らせればよいと思っている人が大多数でした(いまもそうだと、私は考えています)。そういう意味では、比較的社会が安定していたシアヌークが統治した時代は、いまでも「いい時代だった」とノスタルジーの対象になっています。
 無意味な空爆により、多数の無意味な死者と荒廃する国土を目の当たりにした人びとは、ロンノル政権=アメリカを嫌うようになり、アメリカではない別のもの=ポルポト派に協力的になっていきました。この時点で、別のもの=共産主義ではないことが重要です。
 こうしてカンボジアは、1975年のポルポト時代をむかえます。中国の全面的なバックアップにより生まれたポルポト政権は、まるで文化大革命の縮小版ともいえるような政策をうちだし、かなり幼稚な方法でそれを実践しました。その結果が150万人ともいわれる虐殺につながったわけです。
 ポルポトによる政権奪取が、「侵略」なのかどうかは微妙です。当初、多くのカンボジア人がそれを望んでいたのは事実なのですから。ふたを開けてみたら、とんでもない政権だった、ということです。一方で、ポルポト政権の樹立には、諸外国の利害や思惑が、かなりからんでいたことを押さえる必要があります。
 冷戦期ですから、米ソのいずれも、一国でも見方になる国がほしい。さらに、ソ連との対立が深まっていた中国は、ベトナムラオスが親ソ化するインドシナにおいて、みずからの共産主義を支持する拠点がほしい。そういう大国の思惑に左右されつづけていたのが、カンボジア近現代史だともいえます。
 いずれにしても、ポルポトの目指した共産主義という理念や大義(この理念や大義自体は、間違っていると決めつけることはできない)と、大虐殺となってあらわれた実践の結果(この実践は、あきらかに間違っていた)が、どれだけ乖離していたのかを見極めることが、ここでは重要になります。
 1979年になると、ポルポト政権から人びとを解放するという大義で、ベトナムカンボジアを「侵攻」または「侵略」します。虐殺政権時の苦難の体験と、それから逃れることができたカンボジア人の喜びは、多くの手記に書かれています。このベトナムの行為を、「侵攻」か「侵略」か判断するのも、微妙な問題です。
 しかしながら、カンボジア入りしたベトナムは、すぐにヘン・サムリン政権という傀儡政権をつくり、実質的にカンボジアを統治します。解放というのはあくまでも大義であり、実際には民族自立の国家など、カンボジアにはできませんでした。ソ連にすり寄ったベトナムはこの時期、中国と喧嘩をしており、喧嘩の延長線上にカンボジア「侵出」または「侵略」があったともいえるわけです。いいかえれば、インドシナから中国=ポル・ポト政権を追い出せ、ということになります。
 ここでふたたび、大義(虐殺政権から解放)と実践(傀儡政権樹立による間接統治)の乖離が見られます。そして、この大義と実践の乖離という問題が、「亜細亜主義」とおおきくからんでくることになります。
 つづきは次回に。