週刊SPA!の巻頭コラムについて

 今日は火曜日。さきほど「週刊SPA!」が届きました。
 じり貧だった旧「週刊サンケイ」から決死のリニューアルを遂げ、「マネー」「恋愛」「遊び」を柱にした企画でそれなりの部数を発行している雑誌です。
 一応、週刊誌のなかでは、サブカルチャー関連の記事が多い同誌に目を通しておけば、「若者文化」なるものをすこしは理解できるのかなあ、と思って読んだりしています。
 とはいえ、このところ読みたくなる記事が、どんどん減っています。いまや必ず読むのは、くらたまの「だめんず・うぉ〜か〜」とさかもと未明の「ニッポンの未明」、松尾スズキの「寝言サイズの断末魔」くらいでしょうか。
 巻頭コラムで「売れっ子」コラムニストの勝谷誠彦さんが、「我こそはニッポンの代表者ナリ」といわんばかりの空回りした文章を書いています。きっと同じように空回りしている人が多くいるから、このコラムが「巻頭」に配置されているのだろうなあ、などと思いながら同コラムを流し読みします。
 ウザい。今回は、青学の高等部が入試問題で出した英文に関することを書いています。英文には、元ひめゆり学徒の証言を学生が聞いたときの感想について書かれているのですが、ここではくわしく書かきません。詳細は同誌6/28号を読んでいただければと思います。
 で、何がウザいのかというと、彼の「私はいつも平和を構築するにはリアルな戦争の感触を知らねばならないと言ってきた。リアルな感触とは歴史的な事実や遺物に接して本人が肌で感じる恐怖である。それは個人の感性のフィルターを通して語られるものとはまた別なのだ」という大上段な物言いがウザい。
 誌面で読んだ限りでは、勝谷さんはイラクにいったり、竹島にいったりと、ニュースになる場所へ「体験取材」にいっているようですね。たしかに、ネタが何であれ、ジャーナリストは現場にいったほうがいいのは認めます。「リアルな感触」があって書く記事と、なくて書く記事とは、説得力が変わってきます。
 自分の「リアルな感触」を担保にして、平和論を語るのはいい。けれど、それを人に押しつけるのはどうなのでしょうか。私など勝谷さんなどよりもよっぽど、カンボジアで長期にわたり「リアルな戦争の感触」を味わったのですが、その感触を他者に「知らねばならない」などと押しつける気はありませんし、そんな必要性も感じません。
 「リアルな戦争の感触」を知ることのできる、すなわち戦地や紛争地に足を伸ばす日本人など、今後も増えることなどありません。ならば読者に「リアルな感触」を持てなどと強要することに、どんな意味があるのでしょうか。
 もし彼がジャーナリストなのであれば、そんなに熱くならず、あまり価値をまじえない乾いた文章によって、自分が見聞きしたことや感じたことを淡々と、読者に知らせればいいんじゃないのかなあ。そして、紛争地にいかない読者たちは、その乾いた文章を読んで、「リアルな感触」を想像すればいいと思うのですが。
 自分の「リアルな戦争の感触」を開陳しつつ、議論をすすめる彼のコラムを読んでいると、なんだかむなしくなります。そんな彼の噴きあがった文章を、「二項対立で敵と味方がはっきりしており、極端なことをいっているので面白い」と読者が感じているのであれば、それは宮台さんがいうところの「民度」の問題になってきてしまいますね。
 いずれにしても、たまたま自分が経験した「リアルな戦争の感触」を元手に、「日本の戦後平和教育の最大の失敗は歴史を物語にしてしまったことにある」と彼はいいきってしまいます。それは、どうかなあ? とりあえず、「リアルな戦争の感触」を持つ読者としての私には、何の説得力もありません。
 やはりテレビでコメンテーターなどをして、知名度があがると、週刊誌の巻頭で何をいってもいいよって話になるんですかね。ちなみに、テレビに出演しはじめた活字系ジャーナリストで、テレビ出演前より出演後のほうがいい文章を書いたり、いい仕事をしているような人を、私は知りません。
 カネは人を変えてしまうのでしょうか!?