武田徹さんが企画したジャーナリストセミナー

 いまの日本、そして世界が、さまざまなリスクに覆われていることは、時々刻々と伝えられるマスコミ報道などにより、すでに誰もが感じていることでしょう。
 リスク社会を見つめ直す場合にたいせつなことは、大きく分けてふたつあるような気がします。第一に社会にはどんなリスクがあるのか、ということ。第二に、そのリスクをどう報じる(伝える)のか、ということ。
 目先に危機があり、その情報は一般の人びとが共有すべきなのに、政治的・経済的な圧力により報じられないのはマズい。逆に、政治的・経済的な圧力が働いて、一般の人びとにとってはたいした危機ではないのに、やたらと大きく報じられるのもマズい。じゃあ、どうしたらいいのだろう……。
 そんな疑問をずっと抱いていたので、武田さんが企画したセミナー(「リスク社会と報道」連続セミナー)に参加することにしました。来月から月1回、全8回の連続講座です。毎回のセミナーの概略は、できるだけこのブログで報告するつもりです。
 受講資格を得るために800字の課題作文を書きました。せっかく書いたので、以下に貼り付けておきます。

リスク社会を報道する難しさ

 文京区千駄木のいたるところに、「見られているぞ」と大書きされたポスターが貼られている。そのポスターには、恐い目のイラストも描かれている。貼ってあるのは、地域の掲示板や一般の民家、店先などなど。いまや観光地化しつつある東京の下町で、「見られているぞ」とポスターにいわれるたび、私は憂うつになる。
 日々のマスコミ報道で、様ざまな犯罪が報じられている。それを見たり読んだりした人が、「明日はわが身」と考えてしまった結果、「見られているぞ」というポスターが町に溢れているのであろうか。わが身にふりかかるかもしれない災難を防止するためには、相互監視の日常化はやむなし、ということなのであろうか。
 文京区の千駄木や根津、そして台東区谷中は「谷根千」と呼ばれる。これらの地域は人口の流動化がすくなく、いまでも町内会が機能し、ある意味では地域コミュニティのお手本ともいえる地域だ。そのような地域で「見られているぞ」と相互監視を呼びかける意味は、どこにあるのであろうか。
 「見られているぞ」というポスターを目にしたとき、私たちは「誰が誰を見ているのか」とか「なぜ見る必要があるのか」と想像する必要があろう。想像せずに、素直に相互監視を承認してしまうことは、素直に自由を奪われることにつながる。自分たちが無知であることを認めたうえで、想像したり知ろうとしたりする意志が必要になろう。
 犯罪者から子どもたちを守るのか。交番駐在の警官が足りないので、住民が治安を管理するのか。セキュリティ会社のお金が、治安当局に流れている結果なのか。このように、私たちの想像を補助するような材料を、マスコミは与える必要がある。とはいえ、マスコミはそれを報じない。それは、マスコミも誰かに「見られている」からなのであろうか。