編集実況

 土日は、近所の根津神社の祭だったが、来年が大祭とのことで、いまひとつ盛り上がりに欠けていた。
 『限界の思考』。届いた原稿のチェックを済ませ、印刷屋に送る。のこりはMさんの「あとがき」のみ。これは、最悪の場合でも、入稿の直前に入れればどうにかなる。とにかく本文のすべてをゲラにすることができて一安心。ここ数ヶ月で、Mさんには80枚くらいファックスを送ってしまった。ファックスの内容は、催促がメインなのだが、身辺雑記を記したり、フォントやデザインを変えてみたり、けっこうバラエティに富んでいる。もし連日、似たような内容とデザインのフィックスが送られてきたら、自分だったら嫌になってしまう。それにしても、7月刊行予定の期日をしっかりと守ってくれたKさんには、刊行が遅れてしまい、ほんとうに申し訳ないことをしてしまった。今度、谷中で一杯おごりますので、お許しくだされ。両筆者による怒濤の加筆のため、頁数が400を超える見とおし。原価が増えてしまうが、いろいろ調整して定価は税込み1995円に抑えるつもり(どうしても無理だったら、100円くらい上がってしまうかもしれません)。構成もすこしかわりました。以下、最終稿の目次を貼り付けておきます。目次だけで、こんなにたくさんあるんですよー。

宮台真司北田暁大
『限界の思考』
目次

まえがき  北田暁大

第一章 空虚な時代を生きる

 一 保守思想を考える
  あえてするコミットメントと保守主義の台頭
  崩壊するコミュニケーションの地平
  ホンモノの右翼と保守
  左派によるロマン主義への繊細な考察
  人間の理性は世界を覆えるのか
  私たちが物事をまじめに考える動機

 二 アイロニーロマン主義、そして社会学
  思考のパッケージとしてのハーバーマスルーマン論争
  社会学とロマン派とアイロニーの結節点
  天皇論を持ち出すことの本意
  ロマン主義とは何か
  「超越系」と「内在系」
  認識上の転向、実在上の非転向
  形式を反復するロマン主義の罠
  アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本
  この空虚な時代を、どう色づけしていくのか

第二章 文化を記述する方法

 一 「価値自由」とは何か
  あえてウェーバーの価値自由を提唱する
  理論家/実践家としての廣松渉
  上野千鶴子という非還元主義者
  私が社会学者になった理由
  「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?
  日本のカルチュラル・スタディーズの問題点
  いまなぜ「政治の季節」を語るのか
  人はなぜ全体性に惹かれるのか
  政治への意志を社会と接続していく

 二 文化を研究することの意味
  流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー
  認識は脱政治的に、実践は政治的に
  カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは
  非還元論的な文化研究をめざす
  文化を記述することの難しさ
  社会学的な想像力を磨く
  モードの変化に気づく力を養う
  反省を分析する手法の開発が求められている
  限界の思考

第三章 社会学はどこへ向かっていくのか

 一 「意味なき世界」とロマン主義
  人間であり続けることは、どういうことなのか
  ロマン的なものと動物的なものが反復する社会
  近代システムの特徴としての再帰性
  ロマン主義再考
  日本は思想の全体構造を見わたしづらい?
  かつて想像された全体性がよみがえる
  「意味なき世界」を肯定するような習慣

 二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
  人間は壊れているという自覚
  乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて
  ローティの「反思想という思想」
  虚構のうえに成り立つ近代社会という前提
  社会学者はいま、何をすべきなのか
  保守主義構築主義というふたつの武器
  超越への断念と批判への意志を貫く 

第四章 アイロニー社会学

 一 戦略的アイロニズムは有効なのか?
  時代とともに変化するアイロニーの構造
  ポスト八〇年代をどう見るのか
  日本には「消去しきれない理念」がない
  オブセッションが人をどう駆動するのか
  大澤真幸の単純さ
  アイロニーオブセッションへと頽落する戦後サブカル
  戦略的アイロニズムオブセッションへの処方箋
  オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食

 二 楽になるための歴史と教養
  若い世代は軽いようで重い
  教養という旅をした世代、旅ができなかった世代
  八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか
  視界の透明性が存在しない後続世代
  歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない
  七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ
  歴史をとおして自分の位置を確認する
  強迫性を解除するための方策とは

第五章 限界の思考

 一 全体性への思考と専門知
  治療としての歴史記
  奇妙なかたちで流用される専門知
  何が道具で何が知識なのかを考える
  教養主義者としての蓮實重彦
  依拠すべき参照項の消えた時代

 二 社会の操舵が困難な時代 
  いまこそギリシャ哲学に学べ
  分析哲学を見直す
  オースティン、サール、そしてデリダ
  何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい
  宮台アイロニーへの思い違い
  『歴史の終焉』という終焉を生きる
  啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか
  合理性のない欲望が肥大化する日本社会
  国粋はかならずしも、愛国の体をなさず
  公共的であることの困難

あとがき  宮台真司

 『デリダの遺言』。初校の直しは終了。印刷屋に送る。Nさんは、マジで仕事が速い! 助かります。

 来週なかばから再来週はじめにかけて、ふたつの本のゲラ(合わせて約700頁分!)が届く。届いたら、また寝られなくなる。とはいえ、ゲラが来るまでは、営業をちょこちょこやって、デザインまわりを確認するくらいの作業量(あっ、11月12月の仲正×北田トークの構成も考えねば)。というわけで、今日から2泊、家族で軽井沢にいってきます。おそい夏休みということで。
 中秋の名月。美しかったなあ。