ふたたび「ホテル・ルワンダ」について

以下、昨日のつづきです。

さきほどテレ朝「虎ノ門」を観ていたら、「こちトラ自腹じゃ!」という井筒監督が自腹で映画を観て、その映画を批評するコーナーで、「ホテル・ルワンダ」が取りあげられていました。辛口批評の井筒さんが、めずらしく星三つの満点をつけつつ、「この映画は啓蒙映画だ」といっていました。この映画が「啓蒙映画」だというのは、ある意味で正しい評価だと思いました。

「キリング・フィールド」にしろ「ホテル・ルワンダ」にしろ、「うちらの虐殺が、ほかの地域の虐殺よりもひどかったんだ」ということを表現しているわけではありません。そして、いい悪いは抜きにして、虐殺にあった国や地域の人は、自分らはこんなにひどい目にあったんだと言いたいに決まっています。私自身がそういう目にあったとしたら、やはり人に言いたくなるだろうし、ほかの人や国に対して理解と支援を求めることでしょう。
さらにいえば、ひどい目にあった側(被害者側)は、そのひどさを過剰に表現したり伝えたりすることでしょう。それは当然のことです。とはいえ、それをそのまま受け取ってしまうのはどうかなあ、と思います。そもそも、人の記憶なんて、かなりあいまいなものですし。
それで、ひどい目にあった側の「ひどい目」がどれほどのものであったのかと、なぜ「ひどい目」にあったのかを、ある程度の冷静さを確保しながら分析するためには、やはりひどい目にあわせた側(加害者側)の視点や証言が必要不可欠になると思います。
おもいきったことをいってしまえば、なぜ虐殺が起こるのかとか、虐殺を起こさないためにはどうすればいいのか、ということを考えるためには、殺される側の論理よりも殺す側のそれを知ることが、重要なのだと私は考えています。
だからといって、殺された側の論理を無視するのではなく、殺された側と殺す側のいずれの論理も取り入れ、相対化し、分析する必要があるということです。ただし、殺された側は話しやすく、かつ表現が過剰になりやすく、殺す側は話しにくく、かつ表現が過小になりやすいという前提があるとすれば、殺す側の視点や証言を重視せざるをえないわけです。
そういう意味でいうと、「ホテル・ルワンダ」には殺す側であるフツ族民兵の論理が、あまり表現されていなかったような気がします。歴史的な経緯を知らないでこの映画を観ると、どうしても「フツ族民兵は全員ひどい奴らだ」と思ってしまいがちになります。でも、短い時間のなかで、ストーリー的に整合性を保ちつつ、ルワンダ虐殺を表現するのは、たいへんなことだとは思いました。

「キリング・フィールド」では「旧人民と新人民」、「ホテル・ルワンダ」では「ツチ族フツ族」という二項対立関係、もしくは敵/味方関係が浮かびあがり、その関係がちょっとした契機によって、虐殺へとつながっていく様が描かれています。
映画でも紹介されていたように、ルワンダではラジオが、虐殺の契機として重要な役割を担いました。カンボジアポル・ポト時代では、逆にメディア機関がほとんど閉鎖されたことにより、地域共同体ごとのトップの判断次第で、虐殺がおこなわれたりおこなわれなかったりしました。いずれの国も、二項対立関係を強調し、一方が他方を排除する「号令」がかかり、虐殺が発生しました。

ようするに、ふたつの国の虐殺を描いたふたつの映画を観た私たちが考えるべきことは、二項対立やら敵/味方となってしまうと、人はいとも簡単に人を殺してしまう可能性がある、ということにつきると思います。
その意味で、「ホテル・ルワンダ」を観たうえで、ルワンダ虐殺よりもひどい虐殺があったとか、ルワンダ虐殺は表沙汰になったからまだマシだなどという議論は、その議論自体に二項対立を持ち込んでいるという点で、好ましくない見方をしているなあと思った次第です。
何事も、二項対立関係やら敵/味方関係に還元してしまうのは簡単だし、わかりやすいし、議論しやすいのは確かです。しかし、「ホテル・ルワンダ」を観た私たちは、そのように還元してしまうことには重大な問題点があるということを、それこそ「啓蒙」されるのではないでしょうか。
ただただ対立するだけではなく、たえず妥協や手打ちなども視野にいれた関係性を保つことが、虐殺の温床となるような「憎悪」を抑えることのできる唯一の方法であるような気がします。
二項対立にさせたがる人は、対立していないと自分の存在感や生き甲斐などが保てないのかもしれません。ポル・ポトなども、ポト時代の末期は、人びとにたえず敵を提示することによって、みずからの地位を確保していたように思えます。
とはいえ、これだけ世界でさまざまな事件が発生し、二項対立の行く末がしめされています。だから、自分の立ち位置がすこしくずれるかもしれないけど、対立しながらもすこし妥協したり手打ちをしたりして、対立以外の道を探ってみるのもよいかもしれません。
「自分が絶対に正しい」なんてことは、ありえないのですから。