『いじめと現代社会』の編集作業は終了!

lelele2007-02-07



ようやく新刊の編集作業がおわりました。
印刷・製本の後、書店に配本します。
2月14日に配本し、15日から順次、書店の店頭に並ぶ予定です。


新刊は、『いじめと現代社会』です。その内容は、社会学者・内藤朝雄さんが「いま読者に伝えたいこと」を編んだものとなっています。
ぜひとも、ひとりでも多くの読者に読んでいただければと思っています。


作業が一段落して、内藤さんと出会ったときのこと思い出しました。
それは、宮台真司さんや藤井誠二さんらと名古屋で「ちんこ祭り」を見物したときのことです。
前日の夕食時に、黒い毛皮のジャンパーを着た内藤さんは、突然あらわれました。
黒い毛皮のジャンパーですよ!?
驚きましたね(笑)。


キング・クリムゾンのメンバーみたいな格好で登場した内藤さんの第一印象は、とてもシャイな雰囲気の、青年なんだかオッサンなんだかよくわからない、不思議なものがありました。鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』に出てくるキンドウ・ニチヨウさん(通称キンドーちゃん)と二重写しになるような、キラキラと光る眼。一方、学務や原稿書きで憔悴したような表情。
夕食時の途中から宮台夫妻が合流すると、私たちとなじんで熱弁をふるっていた内藤さんの口数が、ピタッと減りました。またシャイな内藤さんになってしまった。後日、「やっぱり宮台さんを前にすると、緊張するよ〜」といっていました。


その後、藤井さんや私らとオカマバーに何度もいったり、ご自宅のある狛江駅付近で食事をしたり、トークセッションを企画したりと、この1年は内藤さんと会う機会がとても多かった。
何度も会ってるうちに、「この人の本を出したいなあ」と思うようになりました。本をどうのというよりも、内藤さんの考えていることや主張を、私が媒介となってすこしでも広く伝えられたらいいなあ、と思いました。


リベラルな社会をつくる、ということ自体の是非はあると思います。私自身は、それを支持します。
書店に並んでいる本を眺めてみると、百科事典のようにさまざまな事柄についての教養を持った方が、その教養をところどころで開陳したり、その教養を元にして他者の批評を展開する、という内容のものが多いように思えます。
たしかに、個別具体的な「もの知り加減」を競うことに価値を見いだすことには、知的「骨董屋」の世界では意味のあるとかもしれません。


とはいえ、考える対象が「社会の構想」となってくると、その全体を俯瞰したシステムを考察したり、そのプラットフォームとなるものを「生み出す力」が必要です。そして、その力は、百科事典的な知識や教養、すなわち「骨董屋」さんの能力とは、別の能力です。
そういう「生み出す力」のある人の本は、なかなか書店で見かけることがありません。


そのように考えてみると、社会のプラットフォームを生み出したり、その骨組みのアウトラインを考えるのが内藤さんであり、今回出す本は、社会の「建築現場からの発言」のようなものだと私は思うんですよね。家を建てるときには、建築士からはじまって、大工さん、左官さん、電器屋さん、家具屋さん、ガス屋さんなどなど、いろんな人が関わります。
社会を建築しようと思ったら、家を建てるように、いろんな人がさまざまな役割を分担すればいいと思います。だがしかし、設計図がなければ家は建ちません。さらに、設計するための要望や意見がなければ、設計図そのものが書けません。


いろんな人が社会学者としての内藤さんに意見や要望をいう。それを元に、内藤さんが社会のシステムやプラットフォームについて考える。その考えについて、それぞれの得意分野を持つ人たちがさまざまな議論をして、こうしたらいいんじゃないかという方向を定めていく。ようするに、さまざまな人たちが、それぞれの得意分野を持ちよって、相互に補完的な役割を担いながら、社会のあり方を考えていけたらいいなと思ったりします。


内藤さんは、ほかの人が考えないようなことを考えます。多くの人が、どこかに所属しつつ、「みんな」でものを考えている人が多いなか、内藤さんは「ひとり」で考える。そんな内藤さんの発言は、ときには過激に思われるかもしれません。
しかし、時代の変わり目や「みんな」が息づまっているときにこそ、こういう「ひとり」の力が必要になるのだと思います。なんといっても、内藤さんの所属する政治勢力は、右でも左でもないリベラリストの独立勢力である「ない党」なのだそうですから(笑)。


上記のような役割分担を実践して、そのなかで内藤さんの思考を有効に活用すれば、きっといまよりましな社会像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。「ひとり」の力が、多くの人びとにバトンタッチされることの意味は、けっしてちいさくないと思います。いみじくも、『いじめと現代社会』の「あとがき」で、内藤さんはこのバトンタッチについて、不器用な変人の吉田松陰からやり手政治家の伊藤博文へ、という比喩で描いています。


漠然と書きましたが、以上のような意味で、私は内藤さんに期待しています。そして、『いじめと現代社会』を読んでいただければ、いま私が書いたことの意味が、すこしわかっていただけるかと思います。
私は、内藤さんの言葉が、社会を変える「さいしょの一粒」になるだろうと期待しています。いろいろな人たちが、彼の言葉を盗んで、自分なりに加工して、さまざまな成果をあげることを期待しています。


これから、参議院選衆議院選と続きますが、いろいろな政治家や評論家たちが、いまという時代の変わり目において、自分が生き延びるために、内藤さんのオピニオンを盗むかもしれません。いろいろな人たちに盗まれた内藤さんの言葉が、社会のあちこちで、変化を生み出すかもしれません。
 こういう期待があるから、一緒に本をつくろうと思ったのです。


キラキラと光る内藤さんの眼からは、たえず社会のあり方を考えるその熱意が感じられます。その熱意が読者のみなさんにも伝わったらいいなあ、と心から願っています。