「人文書」は、じいさんたちのものなのか? 2


昨日のエントリーには、たくさんの方にアクセスしていただきました。
ありがとうございます。
コメント欄やメールで、いろんなご意見をいただきました。


以下に、昨日の反響のなかで、あくまでも私が恣意的(笑)に選んだメールを転載いたします。私が思いつかなかった点や書き忘れた部分も指摘されており、たいへん参考になりました。
送り主は、中堅出版社で活躍する現役編集者Xさんです。

・「人文書は、じいさんのものなのか?」について

じいさんのものだ、と実はわたしは思います。
といいいますか、じいさんたちがつくっていた「人文書」というのは、サブカルだったわけですよね、いまにおきかえてみるならば。そう考えてみると、宮台先生がなんで「サブカルサブカル」というのかといえば、半分は趣味だと思いますが、半分は「人文書サブカル」ということを見越していたわけで、やはりさすがだというべきなのでしょうね。

名編集者なるものがいた理由は、市場拡大時に出版社も儲かった、というような話をぬきにしては語れない面はある、と思います。もちろん、当時の編集者は、わたしよりもずっと学識があると思います。しかし、その学識も著者の先生と同じゼミだったとか同じ大学だったとか、そういうものが背景になっていただけなのでは。まとめるなら、党派的に本を出していた、ということにすぎない面があるのでしょう。


党派的に本を出していたという点は、もっと強調されてもよいことだろうとわたしは思います。この観点からいえば、大塚さんなんて「はあ」です。長谷川さんもピントはずれですよね。ほかにもややはずれてるな、という方がいますけど……。西谷さん(未來社)とか。「論座」については、柄谷さんもよくわからない人選です。


個人的には、じいさんのものに徹底すればいいと思います。しかし、当のじいさんたちは、徹底するとまでは踏み切らないわけでして……。そういうシケタ空気感には、出版界(?)ではよくお目にかかります。


・「そんな紋切り型の結論に達してしまうほど、人文書の将来が行き詰まっているとは思えませんし、創意工夫の可能性はいくらでもあると思っているのは、私だけなのでしょうか!?」について

谷川さんだけではありません!!
わたしも同感です。工夫の意味やニュアンスには違いがあると思いますし、読者層のとらえかたにおいては、わたしは、じいさんのものとしての人文書派に、それなりに近い感覚をもってはいると思います。ですから、意見が違うところはあると想像しますが、わたしも「可能性はある!」と思っております。
といいますか、繰り言をいう経営者って、何を考えているのでしょうかね。自分はそれで食うと決めたのだから、なんでもするのは当然でしょうに……。なんなんでしょうかね。

Xさんのメール内容は以上です。
まあ、出版社は私企業ですから、どんな人を雇おうが勝手な話です。でも、私が聞き及ぶ範囲でいうと、昔は「幹部と同じ大学だから」とか「幹部と同じゼミだから」とか「親が著者だから」とかいうような、入社する本人の能力やモチベーションとはあまり関係ない部分が重視されたうえで、大出版社に入ってしまう人も多かったとか(いまもそうなのかなぁ?)。


つまり、その人の能力や可能性よりも、思想や人間関係において、出版社幹部にどれだけ近いのかが重視されていた節があります。はっきりいってしまえば、それが「コネ」であり、「党派」だったんですね。で、その「コネ」や「党派」で人選した側の人たちや、人選された側の人たちがつくった本が、Xさんのいうように「人文書サブカル」の論理でもてはやされ、売れる時代があった。さらに、たまたまその時代に「人文書サブカル」を手がけて、それがバカ売れした編集者が「名編集者」と呼ばれている、というわけですね。


正直にいって、ここまでの話はどうでもいい話なんですよ。「そういう時代があって、よかったね」ということですから。「コネ」や「党派」の仲間で集まって、「あのときは、よかったなあ」って話していればいい。
問題なのは、そういった「コネ」や「党派」の集まりの論理を、現状に当てはめようとしたり、押しつけようとしたりする姿勢なんだと思います。昨日も書きましたが。その押しつけの背景には、「自分たちがつくったものこそ、ほんものの人文書だ」というような誇りや自慢が見えかくれしているのが、これまた何ともいえません。


人文書サブカル」の時代は過ぎました。元「名編集者」の方がたが、そんな時代を懐かしむのは、おおいにけっこう(私は、読みたくも聞きたくもありませんが)。とはいえ、元「名編集者」のみなさんは、自分らの輝かしい時代にタイムスリップするだけでなく、いまや事後的にその時代が参照されるに過ぎないということに、もっと自覚的になってほしいものですね。
サンボマスター風に)あなたがたの時代がいまの「若手」に参照されはしても、再現はできないんですよ。いくらあなたがたが再現を望んでいても。


でもね、いまだに大規模・中規模出版社で幅を利かせたり、権力を握っていたりするのは、輝かしい時代の再現を望む世代だったりするんですね。困ったものです。古参の小規模・零細出版社などには、もう救いようがないくらい、そういうじいさんがたくさんいたりもします。


私は、そういう「党派」の匂いが感じて、押しつけがましい出版関係の方がたとは、ほとんどお付き合いがありません。ある意味で、汚染されるのが嫌だから、関係を持つのを避けているところがあります。なかよしクラブみたいなノリで、「私らはいい本だしてるのに、人文書が売れないね〜」なんてアホなことをいいながら、酒を酌み交わす時間がもったいないと思うからです。


それでも……。向こうの方から勝手に助言をしてくれたりするんです。たとえば、「ブログで赤裸々に経営状況を語るのはプロじゃない。儲かっていないなんて書くと、業者が取引してくれなくなる。儲かってなくても、儲かってるふりをするのがプロ」とか。私が創業時に直販で本を売ろうとすれば、自分は取次の金融システムにどっぷりつかりながらも、「君は出版をあまくみている。ひとり出版社で直販なんて無理。やめたほうがいいよ」と直販などやったこともないのに平気でいったり。


そういうことを目前で直接いってくるのは、まだましです。なかには、わざわざ著者の口をとおして、そういうご助言を伝えてくる出版社の社長さんがいたりします。じつに姑息ですね。「そこまでして、自分の価値観やら『輝かしい時代』の残りカスを、『若手』に押しつけたがるのはなぜ?」と思わざるをえません。


印刷屋さんに聞けば、多くの中小零細出版社の社長が支払いの延滞を求めるときの決めゼリフがあるとのこと。それは「いい本を出しているんだけど、読者が買ってくれない。だから、支払いを待ってください」。ぜんぜん「だから」になっていませんよね。そもそも「いい本」かどうかは、自分じゃなくて読者や世間が決めるものだし、金銭の支払いは「いい本」とはまったく関係がありません。


ブログで何を書こうと、直販で本を売ろうと(これは挫折しましたが……)、きちんとした態度で付き合い、決められた時期にお金を支払っていれば、デザインから印刷まで、出版社が世話になるような業者さんがそっぽを向くようなことはありません。
私としては、取次金融システムにずぶずぶハマっている中小零細出版社があまりにも多く、前職(K社ですね)もその当事者だったことから、その腐った部分をできるだけ一般の方がたにも理解してもらい、出版流通の膿を出せたらいいなあと考えて、会社の経営状況などを比較的あからさまにしているだけの話です。


情報公開にも限度がある、というのは理解できます。私だって、変な評判がたつのが嫌な場合は、書かないこともあります。しかし、自転車操業であることを隠蔽し、順風満帆のように振る舞うことが「プロ」だというなら、そんなのはちゃんちゃらおかしいとしか言いようがありませんね。


葉っぱさん(id:kuriyamakouji)のような「気分が若手」の方がたには申し訳ありませんが、出版業界にいらっしゃるじいさんには、どうも押しつけ型の人物が多いように思われます。
学びや気づきの基本には、模倣があると思います。模倣しながら、それに自分のオリジナリティーをくわえて、新しいものをつくっていくわけですね。でも、押しつけられて模倣するのと、みずから進んで模倣するのでは、意味がまったくことなります。


一部の出版じいさんたちには、「自分の価値観やスタイルは表明するにとどめ、どうか押しつけないでください」、そして「『若手』が勝手にあなたの姿を模倣するのを、笑いながら遠くでながめていてください」と言いたいところです。


追記……「若手」の定義があいまいだったので、確認しておきます。私は、昨日と本日のエントリーで、押しつけがましい出版じいさん「以外の人びと」を指すものとして、「若手」という言葉を使っています。つまり、年齢は「おじいさん、おばあさん」でも、自分の価値観を押しつけないような方は「若手」に含まれますし、ちょっとむずかしい本を読み出す高校生も「若手」に含まれます。