仲正昌樹著『思想の死相』の「はじめに」を公開します!

lelele2007-07-05



はじめに


 「思想の死相」という単なる語呂合わせのようでありながら、深い意味もあるのかもしれないと思わせる本書のタイトルは、版元である双風舎の谷川代表の発案である。2005年に同社から出した『デリダの遺言』の副題が「『生き生き』とした言葉を語る死者たちへ」となっていたので、それを継続・深化させたものという位置づけで、このタイトルが出てきたのである。


 そこで、彼と相談しながら、「死相」というイメージに合わせて、現代思想の代表的な理論家を10人ほど選び、彼に質問してもらって、私がその場で「答え」、テープ起こししてもらったものに、私が大幅に加筆・訂正して原稿化していった。本文が会話調の敬語体になっているのは、その“名残”である。横着したわけではなく、会話調のままにしておいたほうが、くだけた調子で説明しやすいからだ――別に「このヘンで読者に媚びておこうか?」などというような無意味な配慮をしたわけではない。


 このようにいうと、適当なつくりの本であるとカミングアウトしているように思えるかもしれないが、かならずしもそうではない。くわしくは、「あとがきに代えて」のほうで述べることにするが、私はかねてから、「生き生きしたもの」を書物の中で「再現」するという無理なことを試みるバカな人たちが、“現代思想”業界に多いことを指摘し、それは不毛であると言い切ってきた。


 ホームレスのおじさんやフリーター・ニートの若者、ネットカフェ難民、ストリートパフォーマンスする人、●●をカミングアウトする人、トラウマを抱えて生きるメンヘル系の人、ファスト風土化する荒れた郊外でしぶとく生きる若者、安倍晋三の美しい日本の欺瞞に目覚めた学生……。こうした“社会の周辺に追いやられながら、たくましく生きる人びと”を、資本主義的な現実におかされていない「人間」の真の姿としてステレオタイプ的に「表象」し、賛美するような“思想書”が、本屋の思想・哲学コーナーで目立つ。


 日常の陳腐さからかけはなれた「珍しいもの」を、お祭り気分で“生き生き”と映し出し、刺激を与えることを視聴者から求められているマス・メディアならいざしらず、そうしたマス・メディア的なお祭りから批判的に距離を取るべき思想・哲学書が、お祭りに参加して、一緒に生き生きしようとするのは恥ずべきことである。


 仮にこれらの書物が表現しようとしているものが、現に“生き生き”していたものであったとしても、それを文字によって再現してしまった時点で、もはや「生き生き」していないはずである。文字にするということは、“生き生きしたもの”をいったん殺してしまうことである。それをわからない者が本を書くべきではないし、読むべきでもない。“生き生きした本”をほめたたえ、“生き生きしていない本”をけなす、脊髄反射的なコメントをブログに書き込んで自己満足しているのは、自慰行為である。本当に“生き生き”したいのなら、パソコンからはなれ、外に出て、大好きな“生き生き人間さん”たちと、“生き生き”とお祭りすべきである。


 文字によって書き連ねられる哲学・思想というのは、どうがんばっても、“死んだ”ものである。否、むしろ、「死んでいる」という自覚がなければ、哲学・思想ははじまらない。これは、私が勝手にいっていることではなく、デリダなどの「現代思想」の旗手たちがいってきたことである。死んだ文字の集積体である「エクリチュール」が、ナマの「パロール(語り言葉)」を“生き生き”と再現前化=表象する、というある意味当然のことを認めたことが、現代思想の出発点だといってもよい。


 そうした現代思想の出発点に関わる問題と、マルクス主義の疎外革命論をかなり薄めたかたちで“実践”している“生き生き人間”さんたちがどんどん湧いて出る現象は、根底でつながっている、というのが私の認識であり、主張である。前著『デリダの遺言』というのは、そういうことを書いた本であった。


 そのことは、同書の中でかなりしつこく説明したつもりだが、にもかかわらず、というか、予想どおりというか、“生き生き”したくてしかたない脊髄君や反射さんたちから、あの手のこの手の攻撃を受けた。自分が「死にかけている」ことを自覚しておらず、「おまえは死んでいる」と宣告するものに襲いかかろうとするゾンビのような連中のことは、いろいろなところでネタとして使わせてもらったので、そんなに損した気はしていない。しかし、“生き生きすること”にどうしても固執したい人間が、いまだにこんなにいるということには、あらためて驚いた。


 双風舎のブログの周囲に集まってくるような脊髄君や反射さんたちの生態を、もっと現代思想的に“深く掘り下げた”(ふりをして)分析する本を書いてもよかったのだが、谷川氏の注文は、「もっとまともな人向けに、“生き生き思想”がダメであぶないことを、デリダ以外の主要な思想家も参照しながら、解説する本にしてくださいよ」というものだった。私も、脊髄君と反射さんたちを相手にするのはやや疲れていたので、“生き生きしたもの”批判の意味を、思想史的に、すこしまじめに検討を試みるという趣旨の、本書の企画を引き受けることにした。


 といっても、生き生き病の病理を具体的に描き出す本を、まったくあきらめたわけでもない。「こんなバカもいるのか」と驚くようなネタがたまってきたら、また考えてみるつもりである――すでにけっこうたまっている。
 そういうわけで本書は、哲学・思想は「死」というテーマと不可分な関係にあることを見抜いている――と私が思う――10人の思想家を選んだうえで、私なりの視点から、彼らと「死」との関係を解説するというかたちを取っている。


 起こした原稿に手を入れる際、あまりにも根拠のない思いつきの発言であった箇所は削除するか大幅に訂正しているが、私の解釈・理解として何とか通用しそうなところや、私的で変わった喩えになっているところは、そのまま残してある。たぶん、そのほうが標準的な解説書との違いが出て、おもしろいと思ったからだ。「わかりやすく書かれた標準教科書」を予想していたとしたら、まちがいなく期待はずれになる。


 ひょっとすると、こういう書き方こそ“生き生き”していると感じる変わった読者もいるかもしれないが、まずは本文を読んで判断して欲しい。


 仲正昌樹