いまさらながら「自殺サークル」を観る、そして読む

lelele2007-01-08



まず「自殺サークル」(園子温asin:B000066ISW)を観ました。
ずっと自殺には関心があったので、いつか観てみようと思っていたのですが、それがのびのびになっていたのです。


女子高生が集団で自殺する冒頭のシーンは、かなりインパクトがありました。
でも、そのインパクトが強すぎて、それ以降のストーリーがあまり印象に残っていません。
小さな子どもがサークルをつくり、そのサークルが若者をいじり、若者を自殺に導いている。警察も手に負えない。便乗するアホも出てくる。
そのような内容でしたか……。
けっこう内容が複雑で、なかなか理解できませんでした。
ホラー映画だったのかな、なんて思ったりもしました。


直後に『自殺サークル』(古屋兎丸著、ISBN:4901579096)を読みました。
こちらは映画公開と同時(なのかな?)に書かれたマンガで、園子温監督の原案に古屋さんが手を加えた内容となっていました。手を加えたというより、ほとんど別物といった感があります。
マンガのほうは、描かれる世界や人物がしぼられているので、とてもわかりやすかったです。
さすが『ライチ光クラブ』の古屋さん。


いずれにしても、「自殺サークル」という映画を観て、漫画を読んでみた結果、「家族不在に端を発するさみしさ」を抱く思春期の人が、「自傷」とか「自殺」「性依存」といった方向に進む可能性があるんだなあ、と思いました。
また、ある人が弱っているときに「サークル」なるものがあらわれ、その弱っている人をいとも簡単に吸収していき、「サークル」の思うがままに操っていく様子は、宗教のシステムに酷似しているようにも思えました。


マンガでは「家族不在→さみしさ→自傷→サークル→自殺」という道筋をたどる主人公の女子が描かれています。そして「家族不在→さみしさ」までは、かなり普遍的な問題だと思うので、私にもすんなり理解できます。
とはいえ、「さみしさ→自傷」という部分は、どういう経緯で「さみしさ」から「自傷」にたどりつくのか、よくわかりませんでした。ベタな感想ですが、自分の皮膚を切ったり血を見たりするのって、なかなかできないし、勇気がいることじゃありませんか。


自傷」というのは、「自殺」にいきつく手前の擬似的な行為なのかなあ。
テレビや雑誌で発言する専門家の声は、「自傷」にさまざまな意味を見いだしているみたいだけれど、そんなに深い意味があって「自傷」をするのかなあ。
やったことはないけれど、自分の身体を切ったり血を見たりすることって、意外に自分が求めていることだったりするのかなあ。
あー、わからない!
いつか渋井哲也さんやロブ大月さんとゆっくり話してみましょう。


自分の身体を切ることは、はじめはすごく勇気がいることだけど、そのうち傷口や血を見るのに慣れてしまい、習慣になったりするという感覚は、なんとなくわかります。
次元は違うと思いますが、日本では鉄道会社で飛び込み自殺の死体を片付けたり、カンボジアでは地雷で手足をなくした直後の人と出会ったり、市街で野垂れ死にしている人をたくさん見ていると、悲しいかな死や血に対する畏怖や恐怖の念のようなものが薄らいでいきました。薄らぐというか、慣れてしまうんです。
その慣れが、いいことなのか悪いことなのかはわかりません。


自傷」したことがない私がいうのも何ですが、「自傷」なんてしないに越したことはないと思います。でも「自傷」をしている人に「自傷をするな」なんてことはいえません。何か原因があって、逃げたいから「自傷」するのであれは、それを「やめろ」ということは、逃げ道をふさぐことになってしまうでしょうから。
逃げ道がなくなったら、それこそ「自傷」から「自殺」への道が待っているような気がします。
しかし同じ論理で、いやなことから逃げたいので「自殺」したい人に対して、「自殺するな」といわないで(逃げ道をふさがないで)自殺をさせないためには、どうしたらいいのでしょう。
逃げ道があるといって放っておけば死んでしまうし、死ぬなといえば道をふさいでしまう。
んー、むずかしい。


自殺サークル」のおかげで、いままであまり深く考えてこなかった「自傷」や「自殺」について、以前よりも考えるようになりました。興味深いテーマなので、今後も追っかけていこうと思っています。